オーブリー・ビアズリー 世紀末に散った華
こんにちは、ボタンです。
今回は19世紀末英国のヴィクトリア朝を生きた挿絵画家、オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(1872-1898)の人生と作品を紹介します。
「黒と白の画家」と呼ばれるビアズリーは、その二つ名のとおり、黒と白をメインにしたモノクロームの画風で知られます。
代表作は、オスカー・ワイルドの英訳版『サロメ』※1の挿絵です。
(このオスカー・ワイルドさん。のちのちビアズリーの人生に厄介にからんできます……)
こちらは、『サロメ』の挿絵の一葉である《クライマックス》
※1『サロメ』のあらすじ ユダヤの王女サロメは洗礼者ヨカナーンに恋をするが、ヨカナーンはサロメを冷たく拒否する。義父である王ヘロデに踊りの褒美に何が欲しいか問われたサロメは、ヨカナーンの首を所望する。
宙にぷっかり浮かんでいる人物が王女サロメ、彼女が両手でつかんでいるのは、洗礼者ヨカナーンの首です。
黒と白のはっきりとした対比。
孔雀の羽模様から着想を得たとおぼしき左上の装飾。
ヨカナーンの首からしたたり落ちた血が、百合の花を咲かせています。
残酷だけど、美しい……っ
でも、これはビアズリーが描き出した世界のほんの一側面にすぎないのです。
これからビアズリーの人生を順を追って見ていくのですが、同時代人がビアズリーを批評した言葉の一部を一足先に紹介しましょう。
「グロテスク」
「忌まわしい」
「奇怪」
「猥褻」
「退廃的」
なかなかの言われようです。
ヴィクトリア朝といえば、皆さんは何を連想されるでしょうか?
シャーロック・ホームズの時代
不思議の国のアリスの時代
ロンドンのホワイトチャペルに切り裂きジャックが現れた時代でもあります。
ヴィクトリア女王の治世は1837年から1901年。
ビアズリーが生まれたのは1872年、亡くなったのは1898年。
わずか25年の生涯は、長いヴィクトリア朝時代の後半にすっぽり収まってしまいます。
この夭折の画家の活動期間はたった5年間しかありません。
この5年間に、ビアズリーはスキャンダルをばらまきまくるのです。
しかし、何故ビアズリーがスキャンダルな存在になってしまったかというと、やはりヴィクトリア朝という時代がおおいにからんできます。
ヴィクトリア朝はとても厳格で、保守的な時代でした。
女性が肌を見せるなんてありえない!
性的なるもののすべてを覆い隠せ!
…………おそろしく【道徳的】な時代……と思いきや、裏ではポルノの売買が大いにされていましたし、ロンドンはたくさんの娼婦たちを抱えた街でした。
どの国のどの時代にもそういう面はあるものかも知れませんが、ヴィクトリア朝はとりわけ、【二面性をもった時代】として有名です。
ビアズリーがセンセーションを巻き起こせたのは、この時代の仮面をかろやかにひっぱがしてみせたからなのです。
その1 幼少期ー少年時代
1872年8月21日、オーブリー・ビアズリーはイギリスの保養地として知られるブライトンで生を受けます。
きっかり1歳年上(誕生日が同じ)の姉、メイベル・ビアズリーとの二人姉弟です。
ビアズリーは幼い頃から虚弱で、母親のエレン・ピット・ビアズリーは子供の頃の彼を「華奢なドレスデン磁器そっくり」だったと表現しています。
落としたら割れちゃいそうなくらいか弱かったビアズリーですが、6歳のときに全寮制学校のハミルトン・ロッジに入学しています。
時代性というかお国柄を感じるエピソードですね。
ビアズリーは9歳までハミルトン・ロッジで学びますが、結核の症状によって学び舎を去ることを余儀なくされます。
ビアズリーが復学したのは12歳のとき、今度はブライトン・グラマースクールの通学生になりました。
ここでビアズリーはA.W.キングという信頼できる恩師とも出会い、充実した日々を送ったようです。
ビアズリーの幼少期ー少年時代のキーワードとしては、「音楽」「読書」「演劇」があげられます。
ビアズリーは幼い頃より才能豊かな母エレン・ピット・ビアズリーのもとピアノを教えられてきました。
エレンいわく、6歳にもならないうちからショパンを弾きこなしていたというから驚きです。(母親のひいき目もあるかも知れませんが……)
エレンは自分の二人の子供たちの将来の成功を信じていましたが、オーブリーについては、最初は絵画というより音楽での成功を望んでいたのかも知れません。
さらにビアズリーは大変読書欲旺盛な子供でした。
12歳の頃には少年向けの読み物では物足りなくなっていたようです。
早熟なタイプだったのですね。
三番目のキーワードである「演劇」ですが、彼は生涯演劇好きであり続けました。
ブライトン・グラマースクールの学生だった頃は、友人と一緒に学校を抜け出しては、しょっちゅう劇場の昼興行(マチネ)を観に行っていたようです。
また学校の演劇活動にも加わっていました。
自らお芝居をし、朗読を披露し、ときにはプログラムのための絵を制作したり、衣装のデザインにたずさわったりと熱心に活動をしていたのでした。
絵の制作についても、演劇との関わりの中にその才能の発揮が見られます。
その2 画家としてのデビュー
グラマースクールを卒業した15歳のビアズリーは、1888年、ロンドンで測量技師の事務所に就職します。
これはあくまでつなぎの仕事だったようで、のちに推薦で火災生命保険会社の事務員におさまっています。
事務員としての仕事はビアズリーにとって(他の多くの人にとってもおそらく)けして楽しいものではありませんでしたが、近くにあるナショナル・ギャラリー(ロンドンのでっかい美術館)や本屋通りに通いつめる日々を送りながら、いつか芸術方面で成功する日を夢見ていました。
そんなビアズリーにとって大きな出来事の一つとして挙げられるのが、1891年7月の【エドワード・バーン=ジョーンズ宅訪問】でしょう。
サー・エドワード・バーン=ジョーンズ(1833ー1898)は、ラファエル前派※2の画家として知られています。
※2 ラファエル前派
1848年にイギリスで結成されたグループ「ラファエル前派兄弟団」のメンバーとその影響を受けた芸術家の活動全般を指す。緻密な写実的描写、強い宗教性や中世趣味が特色。
当時、イギリスでもっとも権威ある画家のひとりであったと言っていいでしょう。(サー(爵位)の称号をあたえられているくらいです。)
弱冠17歳のビアズリーは、姉のメイベルと一緒に自作の絵をたずさえてバーン=ジョーンズ宅を訪問します。(一人で押しかける勇気はなかったのかもしれません)
バーン=ジョーンズはビアズリーの絵を見て、「君の才能については何の疑問もない。いつか君が非常に美しい絵を描くのは間違いない」と叫んだそうです!
ちなみにこれは、ビアズリーがこの訪問を回想して、恩師のキング宛に書いた手紙の記述です。
「絵を描く能力を押しつぶしてしまおうとしましたが、駄目でした。その能力は一番強く現れてくるのです」とも書き記しています。
大した自信です。
ビアズリーは実際、これから画家として本領を発揮していくので、うぬぼれとは言えませんね。
バーン=ジョーンズに激賞されたことは、ビアズリーにとって本当に嬉しい出来事だったのです。
ビアズリーに画家としてのデビューがもたらされたのは、1892年のことでした。
ビアズリーがしょっちゅう通っていたエヴァンズ書店の店主フレデリック・エヴァンズの紹介により、出版者J.M.デントから大きな仕事が舞い込んできたのです。
それはトマス・マロリー著『アーサー王の死』の挿絵の依頼でした。
最終的に約500以上の絵を描くことになった文字通りの大仕事です。
無名の新人だったビアズリー、まさに大抜擢といえますが、これにはデント側の思惑がひそんでいます。
デントが欲しがっていたのは【バーン=ジョーンズよりお金のかからないバーン=ジョーンズ】でした。
無名ながら絵を描くスキルはすでにあり、バーン=ジョーンズの影響を受けまくっているビアズリーは適任だったのです。
ここでバーン=ジョーンズの絵とビアズリーが『アーサー王の死』のために描いた二葉を比較してみたいと思います。
いかがでしょうか?
ビアズリーの名を一躍世間に広めたのは、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の英訳版の挿絵でした。
ワイルドといえば、童話『幸福な王子』や長編小説『ドリアン・グレイ』の作者として有名ですが、当時は当時でお騒がせな人物として相当に目立つ存在でした。
饒舌で気障で、愛人たち(基本、美青年)をはべらせて社交界を渡り歩いていたワイルドは、この時代のアイコン的存在のひとりと言えそうです。
そんなワイルド、最初はビアズリーを気に入っておりました。
先に出版されたフランス語版『サロメ』をビアズリーに贈るとき、「僕以外に、七枚のベールの踊りが何であるかを知り、かつ、あの眼に見えぬ踊りを見ることができる唯一の芸術家、オーブリーに。オスカーより」と献辞を捧げているくらいです。
けれど、ビアズリーの挿絵が一枚一枚できあがっていくにつれて、ワイルドは不機嫌になっていきます。
「あまりに日本的なんだよ。僕の劇はビザンチン的なのに」「ませた子供が習字帳の余白に描く落書きみたいなんだ」と友人にもらしていたそうです。
では、その【落書き】のいくつかを見ていきましょう。
ワイルドがビアズリーの絵をこき下ろしたのは、単に気に入らなかったというより、『サロメ』が自分の作品ではなく、ビアズリーの作品となってしまうことを恐れたから、ともいわれています。
それほどまでにビアズリーの絵は鮮烈で、出版前から話題になっているほどでした。
この【話題性】にくっついてきたのは、けして賞賛ばかりではありません。
『サロメ』の挿絵を見ていると、うーん、これは……と苦笑してしまう表現が多々あります。
つまり、「グロテスク」で「忌まわしくて」「奇怪」で「猥褻」で「退廃的」なのです。
でも、そこがまた、たまらない魅力となってヴィクトリアンたちをうならせたのでしょう。
装飾的な美しさと醜悪さが鮮烈な対比となって、今なお私たちを虜にします。
そして、よぉく見てください。
『サロメ』の絵の中には、いくつかワイルドの顔の戯画が描かれているのです。
この方のお顔をお探しください↓
ビアズリーも最初は無邪気にワイルドを慕っていたようなのですが、どうも実際に挿絵に取り掛かる頃には嫌気がさしていたようです。
何でも、ワイルドが保護者面してくるのが気に入らなかったとかどうとか。
当人であるビアズリーとワイルドはお互いに対してうんざりしていましたが、『サロメ』の出版により、世間では二人はすっかりニコイチの存在として認知されていました。
それがビアズリーに思いもかけない悲劇をもたらします。
ワイルドが同性愛の疑いで逮捕され、巻き添えを食う形で美術担当編集主任をまかされていた雑誌『イエローブック』を追放されてしまったのです。
当時のイギリスには、悪名高い「ソドム法」があり、同性愛は刑罰の対象でした。
ビアズリーはワイルドの同性愛の仲間であるという疑いをかけられ、当局に目をつけられることを恐れた出版社がビアズリーを外してしまったのでした。
『イエローブック』自体が、ヴィクトリア朝のすまし顔のモラルに挑戦する革新的な雑誌のはずだったのですが、出版者ジョン・レインは、あくまで表の世界で認められることを求めていたのです。
その4 追放から死まで
『イエローブック』を追放されたビアズリーは、今度は『サヴォイ』という1896年1月創刊の雑誌で再び美術編集の仕事につきます。
レナード・スミザーズというエロティカに魅せられた出版者が出した『サヴォイ』は、『イエローブック』以上に先鋭的であることを狙った雑誌でした。
けれどその売れ行きは思ったようには伸びず、出版期間は一年間、わずか8号で廃刊となってしまいます。
ビアズリーがたずさわった他の重要な仕事としては、アレクサンダー・ポープ著『髪盗み』の挿絵や、アリストパネス著『リューシストラテー』の挿絵があげられるでしょう。
ここで注目されるのは、ビアズリーが描く絵のスタイルが絶えず変化し続けていることでしょうか。
ビアズリーは『サロメ』で独自の美しい様式を確立していますが、そこにとどまろうとはせず、あらゆる表現を模索していたのです。
しかし、ビアズリーに与えられた時間はそう長くはありませんでした。
ビアズリーの人生は、常に結核との闘いにさらされていたと言っていいでしょう。
特に『イエローブック』追放後の数年は、日々悪化していく病状の中、創作を続けていました。
1898年3月、ビアズリーはフランスの保養地マントンにて、母と姉に看取られながら、わずか25年の生涯を終えたのです。
まとめ
いかがだったでしょうか?
本当はもっと語りたいエピソードがたくさんあるのですが、すべてを入れると記事が長くなりすぎるので断念いたしました……。
ビアズリーの人生は短く、画家としての活動期間もわずか5年間しかありませんでしたが、後世に多大な影響を残しました。
私たちは、【ビアズリー的デザイン】をあらゆる場面で目にしています。
黒と白の対比が印象的なデザインを発見したら、それはビアズリーないしビアズリーの影響を受けたデザインの影響を受けている可能性大です!(多分)
もっとビアズリーが描いた作品を見てみたいなぁという方にはこちらの画集がおすすめです。
代表作が網羅されていますし、今回は紹介ができなかったポスター作品や晩年の作品も掲載されています。
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ビアズリーの人生についてもっとくわしくお知りになりたい方には参考文献にあげているスタンリー・ワイントラウブの『ビアズリー伝』をおすすめしたいのですが、そこそこの文章量です……。
作家の原田マハさんがビアズリーの人生を題材にした小説『サロメ』を書いていらっしゃるので、興味のある方はお手に取られてください。
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あくまでフィクションですが、史実に忠実でありながらガンガン創造の羽を伸ばしていらっしゃいます。
そして表紙がイエロー!(ビアズリー好き、世紀末好きにはたまらん装丁)
次回の記事でもビアズリーについて語っていこうと思うのですが、今度は【ビアズリーのジャポニスム】に特化してお話をしていく予定です。
オスカー・ワイルドの「あまりに日本的なんだよ云々」という発言にも引っかかってくる話題ですね。
ビアズリーについてもっと知りたい!
ジャポニスムって何ぞや?ということにご興味のある方はぜひ次の記事もお読みいただければと思います。
↓ ↓ ↓
参考文献
スタンリー・ワイントラウブ、訳:高儀進『ビアズリー伝』中央公論社(1898)
富田章『ビアズリー怪奇幻想名品集』(2014)
海野弘『世紀末の光と闇の魔術師オーブリー・ビアズリー』パイ インターナショナル (2013)
図版出典
図1,12,17
海野弘『世紀末の光と闇の魔術師オーブリー・ビアズリー』パイ インターナショナル (2013)
図2,6,10,11,13,18
ヴィクトリア&アルバート博物館HP(V&A · The World's Leading Museum Of Art And Design (vam.ac.uk))
図3
『FIND A GRAVE』(Find A Grave - Millions of Cemetery Records)
図4
Linda Zatlin『Aubrey Beardsley : a catalogue raisonné』Yale University Press(2016)
図5
レディ・リーヴァー美術館HP(http://www.liverpoolmuseums.org.uk/ladylever/)
図7,8
『Enchanted Booklet』(https://www.enchantedbooklet.com/)
図9
ポンセ美術館HP(https://www.museoarteponce.org/index.php?sec=1)
図14
Wikipedia(オスカー・ワイルド - Wikipedia)
図15,16
富田章『ビアズリー怪奇幻想名品集』(2014)