ボタンのなんとなく美術史

画家の人生や作品についてつれづれなるままに。読むとちょっと美術の歴史にくわしくなれるブログを目指します。

展覧会に行ったときに時々思うこと ガラスに照明が反射して絵が見えない……

こんにちは、ボタンです。

 

今回は私的美術館に行ったときのあるある『絵を守るガラスに照明が反射して絵が見えない』問題について書こうと思います。

 

二年くらい前、福岡市美術館に『ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち』という巡回展を観に行きました。

 

私は美術の中でもとくに19世紀の象徴主義周辺が好きで、モローはまさにどんぴしゃりです。

 

学生時代に研究していたオーブリー・ビアズリーに少なからず影響を与えたとも考えられる存在で、これは観に行かないと!と思ったのでした。

 

その日は何故か着物姿の女性たちがたくさんいらしていて、西洋絵画が展示された場所に和装の鑑賞者たちという素敵な不思議空間が展開されていました。

 

特に印象に残っている作品がいくつかあって、1890年頃に描かれた『パルクと死の天使』(この展覧会の絵はすべてギュスターヴ・モロー美術館蔵です)はその一つ。

 

構図としては、運命の三女神パルクの一人であるアトロポスが手綱を引く馬に死の天使が騎乗しているというもの。

 

背景は青空、というには何やら不穏な黒々とした青と白くけぶった水色のグラデーションで、太陽っぽいオレンジの球体が画面右側に浮かんでいます。

私がとくに注意をひかれたのが、死の天使を乗せているです。

 

黒い馬なのですが、その毛並みは青い光沢を放っています。

 

実際に絵を前にすると本当に心惹かれる色合いなんです。

 

もののけ姫』のデイダラボッチに本当にほんのちょっとだけ既視感。

 

でも今、改めてそのとき購入した展覧会図録を見てみると、馬よりも、死の天使や、うなだれたアトポロスに目がいっちゃうんです。

 

やっぱり、実際に絵を目の前にするのと図版で見るのは違うようなぁとしみじみ思ったりもするのですが。

 

本題はここからです。

 

私がこの展覧会でとくに楽しみにしていた絵があって、それがこちらの《出現》です。

 

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図1《出現》1876年制作

展覧会のタイトルにも入っているサロメを描いた作品です。

 

床にあるのは血だまり……?

 

陰惨な画面を描いた作品ですが、圧倒的装飾性と幻想性がその酸鼻を上回ります。

 

この展覧会の目玉作品の一つでもあったからでしょう。

 

目立つ場所に展示されていました。

 

わくわくと絵に近づき、

 

そして……ガ、ガラスに照明が反射して絵が見えないだと……っという事態に陥りました。

 

絵を守るためのガラスなのです。

 

仕方がないのです。

 

絵画を一部のお金持ちが独占していた時代に生まれなかっただけましなのです。

 

そもそもあとちょっと古い時代に生まれてたら西洋絵画なんぞ見る機会も何も存在すら知らずに一生を終えていたでしょう。

 

それでも思ってしまうのが、昔の人が見たこの絵と私が今見ているこの絵は、同じだけれどまったくの別物だよなぁということなのでした。

 

私はその手の専門家ではないのでフィーリングでしかありませんが、絵の鑑賞において光ってとても大事だよなぁと思います。

 

自然光の中で見るか、蝋燭の光で見るか、蛍光灯の光でみるか、LEDの光で見るか、光の種類や当たり方によって、同じ絵がかなり違う表情を見せるはずなのですね。

 

そしてガラスは透明といえど、どうしても光を反射してしまうので、絵と鑑賞者をさえぎってしまうのです。

 

だから、この絵の前にかつてあの人も立っていたんだ!と感動しても、やっぱり百年前を生きたその憧れの君と自分が見ている景色は違うんです。

 

勿論、そもそも人間が違うので、見えているものが違うのは当たり前といえば当たり前ではあるのですが……。

 

と考えると未来の絵画鑑賞についても何やら想像力を羽ばたかせたくなりますね。

 

ガラスを使用せずに絵画を上手いこと守る方法とかが考案されて、より昔に近い絵画鑑賞が実現されてたりするかも知れません。

 

しかし、私が生きている今は今でしかないので、どうにかガラスの反射をかいくぐってモローの《出現》を鑑賞せんと悪戦苦闘したのでした。

 

 

参考文献 図版参照元

マリー=セシル・フォレスト、他『ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち』図録(2019)