写実絵画の小宇宙 ヤン・ファン・エイクの《アルノルフィーニ夫妻の肖像》
こんにちは、ボタンです。
今回は、15世紀フランドルの画家、ヤン・ファン・エイクの手になる絵、《アルノルフィーニ夫妻の肖像》について書いていこうと思います。
皆さんはこの《アルノルフィーニ夫妻の肖像》をご存知でしょうか?
おそらく世界でもっとも有名な絵画のひとつだと思われるのですが、日本での知名度はそこまで高くないかも知れません。
そもそもヤン・ファン・エイクからして、美術に関心を持っている人以外の一般知識としては浸透していない名前ですよね。
美術史という学問の元祖ヴァザーリは、なんとファン・エイクを油絵の創設者として名指ししています。
それ自体はのちの時代に否定されており、油絵の技法はもっと古い時代から用いられていたことが分かっているのですが、後世の絵画技法に革新をもたらす発明をしたがゆえにこういった伝説が生まれたのではないか?と勘繰ることもできます。
生前すでに画家としての名声を得ていたようですが、そのわりには謎の多い人物らしく、その生涯の全貌は杳として知れません。
そしてそんな彼の代表作である《アルノルフィーニ夫妻の肖像》は、画家同様、謎に包まれた絵なのです。
その1 《アルノルフィーニ夫妻の肖像》はどんな場面を描いた絵か?
《アルノルフィーニ夫妻の肖像》は、結婚の宣誓の場面を描いた絵として知られています。
画面中央の鏡の上に“Johannes de Eyck fuit hic 1434”―ヤン・ファン・エイク、ここにありき 1434―と飾り文字で画家のサインがあるのが分かりますか?
そして鏡の中には、背を向ける二人の奥に、別の二人の人物の影が映っています。
つまり、この部屋の中には実は四人の人物がいるのです。
そのうちの一人がファン・エイクその人で、結婚の証人として立ち会っている、つまり、この絵は結婚証明書のような役割を担っている、と解釈できるわけです。
別解釈も存在します。
この絵は追悼のために描かれた絵ではないか……という解釈です。
アルノルフィーニ夫妻の妻の方は、1433年、つまりファン・エイクがサインを残した年の前年に他界しているのです。
いや、そもそもこの絵に描かれているのはアルノルフィーニ夫妻などではない、ヤン・ファン・エイクその人と彼の妻マルガレーテだ!という説もあります。
この絵は現在、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しているのですが、展示のキャプションの夫の方の名前にジョヴァンニ?アルノルフィーニとクエスチョンマークが付いているそうです。
つまり、左側の人物がジョヴァンニ・アルノルフィーニさんだと断言できるだけの材料がそろっていないということなのでしょう。
その2 緻密すぎるほど緻密
この絵の魅力は、なんといってもその緻密な表現に宿っています。
金属製のシャンデリア、犬の毛並み、衣服の質感。
細部を見れば見るほど、その細やかさが楽しい作品です。
しかもこの絵、わずか82.2×50センチの大きさしかありません。
ファン・エイクは油彩技法に取り組む前、写本挿絵画家として活躍していました。
大変緻密な作業を要する仕事なので、細部へのこだわりはここで培われたのかも知れません。
じっくり見ていると色々な発見がありますが、その中でも特に目を引く調度品は、中央に描かれた鏡でしょう。《図3を参照してください。)
ただの鏡ではなく凸面鏡になっており、しかも鏡の縁の装飾にはキリスト受難の場面が十個ほど描かれています。
先ほど、鏡の中に映り、存在が示唆されている人物の一人がヤン・ファン・エイクである可能性について書きました。
しかし、鏡の中に映っているのは、もしかしたら絵を鑑賞している私たち自身かも知れません。
この絵の前に立ったとき、そこは自然と鏡の中に映っている人物二人が立っているはずの場所と重なります。
この魅惑的な仕掛けによって、鑑賞者はこの絵に参加することができるのです。
その3 まとめ
《アルノルフィーニ夫妻の肖像》は15世紀に描かれた作品です。
私の好きな絵はわりと19世紀の象徴主義周辺に偏向してしまっているのですが、この絵は例外の一つです。
この絵を見ているといつも、丹精込めてつくられたドールハウスを覗き込んでいるような不思議な気分になります。
このご時世なのでいつになるかわかりませんが、いつか本物の前に立ってみたいなぁと夢見ております。
《アルノルフィーニ夫妻の肖像》のことを書いてみようかな、と思うきっかけになったのが、最近読んだキアラン・カーソンの『シャムロック・ティー』という小説です。
数々の聖人の逸話と共に進行していくペダントリーな物語で、《アルノルフィーニ夫妻の肖像》は衒学的要素の中でも特に重要なモティーフとして登場します。
長野まゆみの『フランダースの帽子』という短編にも《アルノルフィーニ夫妻の肖像》が登場します。
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ちなみにフランダースとは、ファン・エイクが活躍したフランドルのことです。
前回書いたアナトミカル・ヴィーナスのときもそうでしたが、小説の中に美術のモティーフを発見すると嬉しくなってしまうボタンでした。
図版参照元
ロンドン、ナショナルギャラリーHP(The National Gallery, London)
参考文献
ステファノ・ズッフィ、訳:千速敏男『名画の秘密 ファン・エイク アルノルフィーニ夫妻の肖像』(2015)西村書店
ティル=ホルガー・ボルヘルト『ファン・エイク』(2009)タッシェン・ジャパン株式会社