ボタンのなんとなく美術史

画家の人生や作品についてつれづれなるままに。読むとちょっと美術の歴史にくわしくなれるブログを目指します。

解剖模型?美術品?精巧にして妙なるアナトミカル・ヴィーナス

こんにちは、ボタンです。

 

今回は美術史の主流から外れた、少々妖しい世界をご紹介したいと思います。

 

「アナトミカル・ヴィーナス」と呼ばれる蝋人形を皆さんはご存知でしょうか?

 

蝋人形といえば、マダム・タッソーが有名ですが、「アナトミカル・ヴィ―ナス」もまた、人間を精巧に真似てつくられた人形です。

 

ただし、この蝋人形の特徴はなんといっても、人間の外側だけでなく中身、つまり臓器も精巧に模造されている点にあります。

 

アナトミカル〈anatomical〉は「解剖学の、解剖学的な」という意味なので、「アナトミカル・ヴィーナス」を訳すと、「解剖学のヴィーナス」となります。

 

開腹、というか胴体の皮膚を剥ぎ取られて内臓を剥き出しにした美女の蝋人形という、いかにも変態趣味を反映した代物ですね。

 

しかし、制作された目的はその名前が表すとおり、解剖学に寄与することにあったようです。

 

本物の死体を使うことなく解剖学を学ぶためのツールとして制作されたのです。

 

私がアナトミカル・ヴィーナスを知るきっかけになったのは、今は亡き小説家、服部まゆみ『一八八八 切り裂きジャックです。

 

 

19世紀末ロンドンでジャック・ザ・リッパーが起こした事件を題材にした小説や映画は数多ありますが、『一八八八 切り裂きジャック』もその一つです。

 

この物語の中で、「アナトミカル・ヴィーナス」がかなり重要な役割を担っています。

 

小説の一部を引用してみたいと思います。

 

『大理石のテーブル上、硝子の棺に『ヴィーナス』は横たわっていた。……豊かな金髪に縁取られた卵形の、心持ちのけ反るように仰向いた顔、右手は身体に沿って自然に下ろされ、左手は肩にかかった三つ編みの髪に触れていた。……だが、その胸部から下腹部にかけての皮膚は無惨に剥がされ、内臓が露呈している。しかも腸は引きずり出され、大腸は肝臓から心臓、肺の上にまで広がり、小腸はとぐろを巻く蛇のようにうねうねと、結腸から膀胱を覆い、まるで熱帯の巨大な花が開いたように乙女のからだを蹂躙していた。』

 

「アナトミカル・ヴィーナス」がこの歴史的未解決事件に象徴的に絡んでいくさまがとても魅力的なのです。

 

 

その1 解剖学と美術史

 

レオナルド・ダ・ヴィンチがその生涯において、たくさんの死体を解剖したという話はけっこう有名ですよね。

 

ゆえにレオナルド・ダ・ヴィンチが描く人体は解剖学的に正確なのですね。

 

じゃあ、その死体どっから調達してきたんだよ、という話になるのですが……。

 

解剖に使われる死体は基本的には処刑された人々のものだったようです。

 

しかし、解剖の件数に対して、処刑の件数が追い付かなくなると、外科医たちは死体を高額で買うようになりました。

 

その裏にあったのが、墓場荒らしの横行です。

 

墓場荒らしの取り締まりが強化されると、生きた人間を殺して死体にして売りつけるような輩まで出てきました。

 

自分で死体を解剖してスケッチするような画家はまれだったでしょうが、そんな解剖学の後ろ暗い歴史が絵画の歴史に貢献しているのは間違いないでしょう。

 

 

その2 アナトミカル・ヴィーナスの誕生

 

解剖学のヴィーナスが制作されるようになったのは、18世紀末のフィレンツェです。

 

フィレンツェにはもともと、リアルな蝋製人体模型が制作される長い伝統がありました。

 

それらはなんでも、カトリックの巡礼者への土産物用の聖なる献げ物?であったそうです。

 

フィレンツェレオナルド・ダ・ヴィンチが活躍した都市でもありますが、解剖学の知識への関心の先進地でもありました。

 

1775年、レオポルト二世は大衆に開かれた初の科学博物館をフィレンツェに設立します。

 

この博物館の中心であった蝋工房において、博物館の目玉となる蝋人形メディチ家のヴィーナス解剖模型』が制作されます。

 

制作者の名前はクレメンテ・スジー服部まゆみの小説では『スッシーニ』と表記されています)。

 

この『メディチ家のヴィーナス解剖模型』こそが、アナトミカル・ヴィーナスの元祖であり、象徴ともいえる存在なのです。

 

オポルト二世が博物館をつくった目的は、一般の人々の啓蒙・教化のためでした。

 

最初に書いたとおり、アナトミカル・ヴィーナスはもともと解剖学に寄与するために制作されたものだったのです。

 

しかも、このヴィーナスは解剖学的に正しく七つの層に分解することができました。

 

一般の人々だけでなく、専門的に解剖学を学びたい人々にとっても、多いに役立つ代物だったはずです。

 

なんせ、死体泥棒に高額なお金を払わずとも人体の仕組みを学べますし、腐らないのです。

 

しかし、解剖学のヴィーナスたちは、常に人々を正しい科学的知識の学びへと導く存在として認知されていたわけではなりませんでした。

 

リアルに造られた内臓剥き出しの美女の死体は、学問にかこつけた見世物として大衆に受け入れられたのです。

 

こういう見方は、今でもなお優勢といえるかも知れません。

 

かくいう私も、解剖学には興味がありませんが、アナトミカル・ヴィーナスには興味津々です。

 

知識を得るためのツールと見るか、美術品として見るか、あるいは猟奇的でグロテスクなものへの好奇心を満たすための代物と見るか。

 

見方によって、アナトミカル・ヴィーナスはさまざまな顔を見せてくれます。

 

 

その3 まとめ

 

いかがだったでしょうか?

 

今回の記事はこちらの書籍にかなり頼らせていただきました。

 

 

やはりマイナー路線なのか、私の調べ方が悪いのか、アナトミカル・ヴィーナスについて読める他の書籍が見つからない……。

 

アナトミカル・ヴィーナス誕生までの歴史的背景や、誕生後の軌跡をたどれる貴重な一冊です。

 

図版がかなり豊富に掲載されていますが、これ本当に18世紀に造られたのか……と度肝を抜かれる精巧さです。

 

興味のある方はぜひ手に取られてみてください。

 

それでは、お読みいただきありがとうございました!

 

 

参考文献

ジョアンナ・エーベンステイン、訳:布施英利『アナトミカル・ヴィーナス 解剖学の美しき人体模型』(2017)グラフィック社

中野京子『怖い絵 泣く女篇』(2008)KADOKAWA

服部まゆみ『一八八八 切り裂きジャック』(2002)KADOKAWA