流転するサロメ 世紀末をいろどったファム・ファタール
こんにちは、ボタンです。
今回の記事のテーマは19世紀末を象徴する宿命の女、サロメです。
もしかしたら、【宿命の女】というよりも、【ファム・ファタール】といった方がとおりが良いかもしれません。
フランス語の綴りはfemme fatal
日本語に訳されるときは【宿命の女】が一般的に使われていますが、岩波の美術用語辞典によると【死をもたらす女】といった方が正しいようです。
男性を魅惑して、最後には破滅させてしまう女。
それこそがファム・ファタールなのです。
19世紀末のヨーロッパにおいて、このファム・ファタールを描いた数々の作品が生まれました。
多くの画家たちが、こぞって【宿命の女】ないし【死をもたらす女】を描いたのです。
この流行の影には、19世紀末がミソジニー(女嫌い)の時代であったことが関係しています。
女嫌いが流行った、などと書くとなんだか違和感を覚えてしまいますが……
女嫌いの流行には、女性解放運動との関連性が考えられます。
家庭の天使たることが美徳とされる女性たちが、私たちにも参政権が与えられるべきだ!と声を上げ始めたわけです。
【主張する女】に対する当時の男性たちの侮蔑や恐怖を映し出した鏡の虚像こそが【ファム・ファタール】であるといえそうです。
その代表格がサロメなのです。
その1 サロメって何者?
内容はざっとこんな感じです。
『洗礼者ヨハネはガラリヤの領主ヘロデを批判して投獄されてしまう。ヘロデは兄から玉座を奪ったのみならず、兄の妻であるヘロディアスと結婚するという禁を犯していたのだ。(兄弟の配偶者との結婚は近親相姦とみなされていた。)ある日の宴のこと、ヘロデは妻ヘロディアスの連れ子の少女に舞を舞うよう命じ、少女は見事に踊ってみせたので褒美になんでも欲しいものをやると約束した。少女は母親になにを求めるべきか相談し、母の言いつけどおり、「盆にのせたヨハネの首」を所望する。ヘロデは約束した手前、それを守らざるを得ず、ヨハネを殺させて首を少女にやった』
サロメって名前が出てこない!
舞を舞った連れ子の少女こそが、19世紀末を妖しく彩ったサロメその人なのですが、大元である聖書では名前すら出てこない脇役的存在です。
どっちかというと母親のヘロディアスの方が【死をもたらす女】という感じがします。
サロメの名前が初登場するのは、『ユダヤ古代誌』という1世紀頃に書かれた歴史書なんだとか。
サロメって何者?という問いの答えは、
「ママの言いつけに従って洗礼者ヨハネを死刑にしちゃった踊りが得意な女の子」
ということになります。
その2 変容するサロメ
聖書の時点でやばいといえばものすごくやばいですが、あくまで母親に従っているだけの女の子だったサロメは、時代が下っていくにつれて、【自ら首を所望する女】へと変貌していきます。
初期の絵画では登場していた母親のヘロディアスがいずこへかと引っ込み、サロメと首のツーショットの絵が描かれるようになるのです。
15世紀以降、
生首を盆にのせてハイ、チーズ。
って感じのサロメの絵がたくさん描かれています。
こちらは16世紀のティツィアーノの作品です。
まぎらわしいのが、もうひとりの首切り乙女ユディト。
今回の記事ではくわしい説明は割愛させていただきますが、こちらは旧約聖書の登場人物で、かんたんにいえば「色仕掛けで町を救った美女」です。
こちらの美女は首を別の人間に切らせるサロメとは異なり、自分でゴリゴリ男の首を切るので基本的に剣を手にした状態で描かれます。
男の生首とツーショットで描かれた女性の絵に遭遇したら、「盆に首をのせているのがサロメ」「剣をもっているのがユディト」と判断してまず間違いないでしょう。
ただし!
ユディトの方はこういうバージョンもいっぱいあります。
ゴリゴリ首を切っている真っ最中の絵です。
ちなみにこういう系統のユディトを最初に書いたのは、カラヴァッジョだそうです。
たくさんの記念撮影的ショットのサロメ像が描かれ続け、19世紀後半、サロメを世紀末の象徴的存在へと押し上げる予感的絵画群が描かれます。
そのサロメ像を描いた画家の名前は、ギュスターヴ・モロー。
その3 そして世紀末へ
こちら、モローが描いた《出現》。
豪奢な衣装の女性がサロメ、彼女が指さしている宙に浮かんだ首はヨカナーンのものです。
記念撮影っぽいサロメ像とは明らかに一線を画しています。
幻想的なモローの絵画は、世紀末絵画の潮流の一つである「象徴主義」の嚆矢といえるでしょう。
モローが描いたサロメ像に魅せられた一人に、J・K・ユイスマンスという小説家がいます。
デカダンスの聖書として知られる『さかしま』の作者です。
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『さかしま』からモローのサロメに言及した箇所を少しだけ引用してみたいと思います。
『瞑想的な、壮重な、ほとんど厳粛な顔をして、彼女はみだらな舞踏をはじめ、老いたるヘロデの眠れる官能を呼びさます。乳房は波打ち、渦巻く首飾りと擦れ合って乳首が勃起する。汗ばむ肌の上に留めたダイヤモンドはきらきら輝き、腕環も、腰帯も、指環も、それぞれに火花を散らす。真珠を縫いつけ、金銀の薄片で飾った、豪奢な衣装の上に羽織った黄金細工の鎖帷子は、それぞれの編目が一個の宝石で出来ており、燃えあがって火蛇のように交錯し、艶消しの肌、庚申薔薇色の膚の上に、あたかも洋紅色の紋と曙色の斑点をおび……』
『聖書の中のあらゆる既知の条件からはみ出すような想像力によって描かれた、このギュスターヴ・モロオの作品に、デ・ゼッサントは要するに、彼が永いこと夢みていた超人間的な、霊妙な、あのサロメの実現されたすがたを見るのであった。』
くらくらするような文章ですね。
言葉をつくしてモローのサロメを讃えています。
(もっとも、『さかしま』は全篇こんな感じです。)
さらにこの『さかしま』に言及しているといわれているのがオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』です。
具体的に『さかしま』というタイトルが出てくるわけではないのですが、主人公であるドリアンが夢中になる『黄色い本』は、その内容説明からしておそらく『さかしま』でしょう!といわれています。
オスカー・ワイルド。いわずとしれた戯曲『サロメ』の作者です。
もっとも有名なサロメを描いたビアズリーも『さかしま』に影響を受けまくっており、自分の家の部屋を『さかしま』の主人公デ・ゼッサントの書斎風に飾っていたという逸話が残っています。
『さかしま』を読んでモローのサロメを意識せずにいることは、画家の立場としてはなかなか難しいでしょう。
モローが描いたサロメとビアズリーが描いたサロメを並べると、似てるなぁ、とはなりませんが、どちらも多分に装飾的であり、幻想性を孕んでいるという点で共通しています。
モローのサロメ像は、世紀末から21世紀初頭にかけて現れたサロメたちの源泉なのです。
その4 いろんなサロメ
では、モロー以降、どんなサロメが描かれてきたのか見ていきたいと思います。
〇オーブリー・ビアズリー(1872‐1898)
一番有名なのは、なんといっても先ほどご紹介したオスカー・ワイルドの『サロメ』の挿絵として描かれたオーブリー・ビアズリーの作品でしょう!
ビアズリーについてはこちらで詳しく解説しておりますので、ご興味のある方はぜひご一読ください。
〇フランツ・フォン・シュトゥック(1863‐1928)
作者のシュトゥックは南ドイツ生まれの画家です。満天の夜空?を背景に青白く浮かび上がるサロメの肢体がなんともエロティックな作品です。のけぞった首筋とサロメの顔に浮かぶ微笑に凄みを感じます。
〇アラステア(1887-1969)
ドイツ出身。ビアズリーの影響が如実にうかがえる作風で知られます。ただし、ビアズリーが【黒と白の画家】と言われるのに対して、アラステアは【黒と白と赤の画家】なんていわれたりもします。かなり謎多き画家です。アラステアの絵を見ると、私の頭の中には「病的」という言葉が浮かんできます……。
〇リュシアン・レヴィ=デュルメル(1865-1953)
幻想的で神秘的で、どこか甘い雰囲気すら感じられる作品ですね。死んだ男の生首に口づけしているというより、眠っている恋人に口づけして起こそうとしているみたいです。
〇おまけ グスタフ・クリムトの《ユディト》
サロメじゃなくてユディトです。
私、ずっとこの人のことサロメだと思ってたんです。
上の方にユディトとホロフェルネスって書いてあるのに……。
その5 まとめ
いかがだったでしょうか?
今回はサロメに限定しましたが(最後にユディトが出てきましたが)世紀末から21世紀初頭にかけて、魅惑的な女性像がたくさん出てきます。
ラファエロなどのルネサンス期の画家を最高峰とするアカデミックな手法への反乱や女性の地位の向上など、さまざまな要素が絡み合って生まれた世紀末の虚像【宿命の女】たち。
もっと色々な【宿命の女】の絵を見てみたいという方にはこちらの画集がめちゃくちゃおすすめです。
とにかく収録作品が多いのと、日本ではマイナーな画家もたくさん取り上げてくれているのがありがたい。
世紀末のトピックスや【宿命の女】に関する概説も豊富で読み応えもあります。
オスカー・ワイルドの『サロメ』が読みたい!という方には光文社から出ている新訳をおすすめします。
この新訳はとにかくサロメが愛らしいです。
サロメは色々な方が翻訳されているので、読み比べてみるのも面白いかもしれません。
ただ、訳で本当に印象が変わります。
私がはじめて読んだ『サロメ』は日夏耿之介訳のものだったのですが、よ、読みづらい。
単純に私に日夏先生の美麗な文章を読むだけのスキルがないだけなのですが……。
分かりやすく一番最初のセリフを例に挙げてみたいと思います。
新訳「今夜のサロメ姫は、また、なんという美しさだろう!」
日夏「今宵のあの撒羅米公主の嬋娟さはのう!」
世界観違いすぎます。
日夏先生のめくるめく世界観に触れてみたい方にはぜひ日夏耿之介訳にも手を出していただければと思います。
次回の記事では、今回一作だけ紹介した謎多き画家アラステアについてご紹介したいと思います。
病的で退廃美あふれる作風が魅力の画家です。
ご興味のある方はぜひご一読ください!
↓ ↓ ↓
図版出典
図1
図2
ホロフェルネスの首を斬るユディト (ジェンティレスキ) - Wikipedia
図3
図4、5、6、7
海野弘『ヨーロッパの幻想美術 世紀末デカダンスとファム・ファタールたち』パイ インターナショナル(2017)
参考文献
海野弘『ヨーロッパの幻想美術 世紀末デカダンスとファム・ファタールたち』パイ インターナショナル(2017)
J・K・ユイスマンス、訳:澁澤龍彦『さかしま』河出書房新社(2002)
オスカー・ワイルド、訳:平野啓一郎『サロメ』光文社(2012)
オスカー・ワイルド、訳:日夏耿之介『院曲サロメ』沖積社(2004)
益田朋幸、他『西洋美術用語辞典』岩波書店(2005)
ビアズリーとジャポニスム 19世紀ヨーロッパを席巻した流行
こんにちは、ボタンです。
今回は、19世紀末イギリスの挿絵画家オーブリー・ビアズリーの作品にみられる【ジャポニスム】について紹介していきたいと思います。
※ビアズリーって誰?と思われた方はコチラの記事をお読みください。
それではまず、ジャポニスムってなに?と思われた方のために、ジャポニスムの軽い説明から始めたいと思います。
その1 まずは、【ジャポニスム】という言葉の定義について。
岩波の西洋美術用語辞典でジャポニスムの項目を調べると、『「日本」という意味のフランス語japonに由来。1860年頃からパリを中心に流行した、日本の浮世絵版画や工芸作品の収集や、単にそれらを鑑賞するだけではなく、積極的に新しい造形感覚に取り入れようとする動きの総称。』云々とあります。
ものすごくひらたく言うと、
「19世紀半ばから終わりにかけて日本美術がヨーロッパとアメリカで大流行り!
見たことのない斬新なアートに西洋人もびっくり仰天!
自分たちの芸術に日本美術のエッセンスを取り入れていったよ!」
という感じでしょうか。
英語にするとジャポニズムですが、フランスが中心の流行であったこともあり、濁らせず【ジャポニスム】とフランス語っぽく表記するのが一般的です。
ジャポニスムには、大きく分けて二つの段階があります。
第一段階
日本美術の中にみられるモチーフなどを単純に模倣して、作品の中に取り入れる。
第二段階
日本美術の造形原理などを分析し、作品に取り入れる。
本当はもっと詳細に段階分けされていたりするのですが、ざっくり分類するとこんな感じになります。
その2 ジャポニスム第一段階 日本趣味
第一段階の具体例としては、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの『陶器の国の姫君』を上げたいと思います。
着物に身を包んだ女性が描かれています。
彼女の手には団扇、後ろには屏風。
日本的モチーフを作品の中に描くことにより異国情緒を狙っているわけです。
こういう風に単に日本のものを作品の中に描いたりすることについては、ジャポニスムではなく、【ジャポネズリー(日本趣味)】という言葉で言い表されることもあります。
ジャポネズリーの作品の中には、浮世絵などに描かれた図案がモロパクリされている例も散見されます。
有名どころでは、エミール・ガレが制作した花瓶《鯉魚文花瓶》なんかがあげられるでしょうか。
その3 ジャポニスム第二段階 日本美術の造形原理などを分析し、作品に取り入れる
さっそく具体例を見ていきましょう。
こちらはウォルター・クレインの『妖精の船』(マザーグース、1870年出版)の挿絵です。
動物たちが擬人化されたかわいらしい絵ですが、この絵の構図の特徴は何といっても、上から見下ろす視点、すなわち【俯瞰の構図】がとられていることです。
この【俯瞰の構図】は日本の浮世絵ではよく用いられていましたが、西洋絵画にはジャポニスム流行の時代までほとんど見られませんでした。
俯瞰の構図がとられた浮世絵の一例です↓
ルネサンス期以降の西洋絵画には、基本的に線遠近法が用いられています。
たとえばこの絵だったり、
この絵だったり。
絵を目の前にしたときに、鑑賞者がその絵と地続きの場に立っているような感覚になるよう意図されているのです。
西洋絵画において【俯瞰の構図】は、日本美術が入ってくるまで、基本的には戦略図やパノラマなどの特別な用途をもった絵においてのみ使用されていたそうです。(ただし、ピーテル・ブリューゲルが描いた絵画のような例外も存在します)
クレインの絵を見て、日本っぽいなぁと思われる方はあまりいないでしょうが、実は浮世絵的構図が活かされた作品なのですね。
次にジャポニスムの具体例としてご紹介するのはチャールズ・リケッツの『スフィンクス』(オスカー・ワイルド著)の挿絵です。
この絵の特徴としては、【非対称的な構図】とそれによって現れた【余白の美】があげられるでしょう。
19世紀末以前に描かれた有名な西洋絵画を思い浮かべたとき、その絵の核、ドラマは画面の中央に描かれているのがふつうです。
伝統的な西洋絵画と比べてみたとき、絵の中心を片側に寄せ、もう片方に大きく余白を抱き込むようなリケッツの描き方は特殊にすら感じられます。
でも、日本美術においては、余白を活かした構図の絵はさして珍しくありません。
たとえばこの浮世絵。
有名な風神雷神図屏風も余白たっぷりの大胆な構図が特徴的です。
以上、3人の画家の作品を具体例としてジャポニスムを紹介しましたが、ジャポニスムの影響が指摘されている画家は他にもたくさんいます。
有名どころではマネ、モネ、ドガ、ゴッホ、クリムト、ロートレックなんかがあげられるでしょう。
それではいよいよ、ビアズリーの作品にみられるジャポニスムを紹介していきたいと思います。
まずは、先にご紹介したジャポニスムの例にみられる特徴をもった作品から。
【俯瞰の構図】
一見してちょっと日本っぽいというかアジアンテイストを感じる作品ですが、この作品の特徴もまた【俯瞰の構図】にあります。
床の面積が画面の半分以上を占めているのです。
西洋の他の室内画に比べると、随分高い位置に視点が配されていると言っていいでしょう。
【左右非対称と余白の美】
めっちゃ右に寄っています。
左上の空間は大胆に放置!
右上にいらっしゃるオスカー・ワイルドさんの戯画もちょっと気になりますが……
お次は先ほどの具体例から離れた例を見ていきましょう。
【人体の構造無視】
以前こういったお話を聞いたことがあります。
日本の着物はまず着物の形が決まっており、その中に身体をおさめるようになっている。
身体のラインに沿うようにして着物が作られているわけではなく、着物のラインがあらかじめ決まっていて、その中に身体を入れて足りないところは補正をしていくわけです。
きちんと確かめた情報ではないので真偽のほどはなんとも言えないのですが、確かに振袖着たとき、変なところにタオル入れられたよな……と心当たりがないわけでもない私がいたりします。
このにわか情報を踏まえてこちらの絵を見てみましょう。
人体構造丸無視ですね。
身体がS字を描いています。
腰はどうなっているのでしょう。
肩についているわさわさしたアレはなにやつでしょうか。
現実的に考えればつっこみどころ満載ですが、それでもこの絵は美しいですよね。
この絵においてビアズリーは、人体を正確に描くことよりも、優美な曲線によって衣服を構成することにより、画面を美しく装飾することに重きを置いています。
浮世絵などに描かれた日本の衣服の表現から得たであろう着想が多々見られるのです。
実際に浮世絵と比べてみるとより分かりやすいかも知れません。
《黒いケープ》と見比べると妙に既視感があります。
肩についているわさわさの正体もなんとなく掴めそうです。
さらに《黒いケープ》の特徴として、衣服が黒ベタ一色で描かれていることもあげられます。
周りの白との対照性が印象的です。
実はこの黒のベタ塗りをアクセントとして使う方法も浮世絵によく見られる手法だったりします。
ただし、ビアズリーの場合は、アクセントどころではなく、【黒と白の対比の美】というところまで浮世絵的手法を昇華させています。
こちらの《ヨカナーンとサロメ》や、『サロメ』の挿絵の中でおそらくもっとも有名な《クライマックス》がより分かりやすいかも知れません。
ここまで鮮烈な対比は浮世絵には見られないんじゃないかなぁと思います。
ビアズリーは日本美術を参考にしながら、独自の様式を確立させていったのです。
おまけ【見返り美人図?】
こちらは『サロメ』の《挿絵一覧表》のための装画です。
私の目にはどうも、この左側に立つ人が菱川師宣の《見返り美人図》そっくりに見えてならないのです。
実際に日賀野友子さんという研究者の方が論文中に見返り美人図との類似をご指摘なさっています。
cinii (CiNii Articles - 日本の論文をさがす - 国立情報学研究所)から無料でアクセスできる論文です。
参考文献に挙げておきますので、ご興味のある方は読まれてみてください。
まとめ
今回は『サロメ』の挿絵にみられるジャポニスムをご紹介しましたが、ビアズリーの作品のジャポニスムはサロメにはとどまりません。
バーン=ジョーンズが影響が濃厚な『アーサー王の死』にも、ロココ趣味全開な『髪盗み』にも、実はジャポニスムが見られるのです。
ビアズリーの絵画様式に影響を与えたのは何もジャポニスムだけではなく、初期ルネサンスやシノワズリーなんかの影響も見られたりします。
けれど、ビアズリーが独自の様式を確立させるために必要だったエッセンスとして、ジャポニスムはとても重要だったと思うのです。
ちなみに、この記事の最初にジャポニスムの具体例として、ホイッスラー、クレイン、リケッツと妙にマイナー路線をあげたのは、このお三方もまたビアズリーに影響をあたえた画家たちだからです。
ビアズリーが生きた時代のロンドンには浮世絵をはじめとする日本美術があふれていました。
自宅の壁に堂々と春画を貼ってお母さんとお姉さんを困らせたという、おいっ、とたしなめたくなるようなエピソードがビアズリー自身に残ってたりします。
けれどビアズリーが画家として活動した1890年代はジャポニスムのブームも後半に入っており、あらゆる画家の作品にすでに取り入れられた後でした。
ビアズリーは日本美術から直接ジャポニスムを学んだ一方で、他の画家の作品に取り入れられたジャポニスムからも学び取っていたであろうことを指摘しておきたいと思います。
前半でさらっとジャポニスムについて説明しましたが、もっときちんと知りたいなぁという方には、馬淵明子さんの『ジャポニスム―幻想の日本』をおすすめします。
- 価格: 8000 円
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私がはじめて読んだジャポニスムに関する本なのですが、ジャポニスムって何?というところから画家の具体例までとても分かりやすく教えてくれます。
刊行されてからけっこう時が経っているので、最新の研究を知るためには近々の展覧会図録なんかをゲットするのが良いと思うのですが、読んで損はない一冊です。
マイナー路線などと失礼なことを書いてしまいましたが、ホイッスラーとクレインについては、日本でも展覧会が開催されたり、関連書籍が刊行されたりしております。
ご興味のある方はこちらを参考にされてください。
[rakuten:vaboo:13074157:detail]
チャールズ・リケッツについては、残念ながら日本ではあまり紹介がすすんでおりません……。
ビアズリー関連、世紀末関連の画集なんかでちらっと影が出てくるだけの存在リケッツ……。
個人的にすごく好きな画家なので、誰か早く日本語の書籍とか画集出して!と願いつつ締めくくりたいと思います。
次の記事では、ビアズリーの『サロメ』に関連して、世紀末を象徴する存在である『宿命の女、サロメ』を描いた他の画家たちの作品を紹介したいと思います。
色々なサロメが登場します。
妖艶な絵や残酷な絵に飢えている方はぜひご一読ください!
↓ ↓ ↓
参考文献
書籍
馬淵明子『ジャポニスム―幻想の日本』ブリュッケ(1997)
スタンリー・ワイントラウブ、訳:高儀進『ビアズリー伝』中央公論社(1989)
正置友子、他『絵本はここから始まった ウォルター・クレインの本の仕事』青幻舎(2017)
益田朋幸、他『西洋美術用語辞典』岩波書店(2005)
論文
日賀野友子「イギリスのアール・ヌーヴォー研究の一側面:ビアズリーと日本」、『叢書:筑波大学芸術学研究誌』11,35-64(1994)
図版参照元
図1
フリーア美術館HP(https://www.freersackler.si.edu/ja/)
図2
国立西洋美術館学芸課『ジャポニスム展図録』国立西洋美術館、他(1988)
図3
正置友子、他『絵本はここから始まった ウォルター・クレインの本の仕事』青幻舎(2017)
図4
図5
図6
図7
Linda Gertner Zatlin 『Beardsley, Japonisme, and the Perversion of Victorian Ideal』Cambridge University Press(1998)
図8
ボストン美術館HP(https://www.mfa.org/)
図9
建仁寺HP(https://www.kenninji.jp/)
図10、11、12、14、15、16、18
ヴィクトリア&アルバート博物館HP(http://collections.vam.ac.uk/)
図13
図17
図19
東京国立博物館HP(https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/)
オーブリー・ビアズリー 世紀末に散った華
こんにちは、ボタンです。
今回は19世紀末英国のヴィクトリア朝を生きた挿絵画家、オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(1872-1898)の人生と作品を紹介します。
「黒と白の画家」と呼ばれるビアズリーは、その二つ名のとおり、黒と白をメインにしたモノクロームの画風で知られます。
代表作は、オスカー・ワイルドの英訳版『サロメ』※1の挿絵です。
(このオスカー・ワイルドさん。のちのちビアズリーの人生に厄介にからんできます……)
こちらは、『サロメ』の挿絵の一葉である《クライマックス》
※1『サロメ』のあらすじ ユダヤの王女サロメは洗礼者ヨカナーンに恋をするが、ヨカナーンはサロメを冷たく拒否する。義父である王ヘロデに踊りの褒美に何が欲しいか問われたサロメは、ヨカナーンの首を所望する。
宙にぷっかり浮かんでいる人物が王女サロメ、彼女が両手でつかんでいるのは、洗礼者ヨカナーンの首です。
黒と白のはっきりとした対比。
孔雀の羽模様から着想を得たとおぼしき左上の装飾。
ヨカナーンの首からしたたり落ちた血が、百合の花を咲かせています。
残酷だけど、美しい……っ
でも、これはビアズリーが描き出した世界のほんの一側面にすぎないのです。
これからビアズリーの人生を順を追って見ていくのですが、同時代人がビアズリーを批評した言葉の一部を一足先に紹介しましょう。
「グロテスク」
「忌まわしい」
「奇怪」
「猥褻」
「退廃的」
なかなかの言われようです。
ヴィクトリア朝といえば、皆さんは何を連想されるでしょうか?
シャーロック・ホームズの時代
不思議の国のアリスの時代
ロンドンのホワイトチャペルに切り裂きジャックが現れた時代でもあります。
ヴィクトリア女王の治世は1837年から1901年。
ビアズリーが生まれたのは1872年、亡くなったのは1898年。
わずか25年の生涯は、長いヴィクトリア朝時代の後半にすっぽり収まってしまいます。
この夭折の画家の活動期間はたった5年間しかありません。
この5年間に、ビアズリーはスキャンダルをばらまきまくるのです。
しかし、何故ビアズリーがスキャンダルな存在になってしまったかというと、やはりヴィクトリア朝という時代がおおいにからんできます。
ヴィクトリア朝はとても厳格で、保守的な時代でした。
女性が肌を見せるなんてありえない!
性的なるもののすべてを覆い隠せ!
…………おそろしく【道徳的】な時代……と思いきや、裏ではポルノの売買が大いにされていましたし、ロンドンはたくさんの娼婦たちを抱えた街でした。
どの国のどの時代にもそういう面はあるものかも知れませんが、ヴィクトリア朝はとりわけ、【二面性をもった時代】として有名です。
ビアズリーがセンセーションを巻き起こせたのは、この時代の仮面をかろやかにひっぱがしてみせたからなのです。
その1 幼少期ー少年時代
1872年8月21日、オーブリー・ビアズリーはイギリスの保養地として知られるブライトンで生を受けます。
きっかり1歳年上(誕生日が同じ)の姉、メイベル・ビアズリーとの二人姉弟です。
ビアズリーは幼い頃から虚弱で、母親のエレン・ピット・ビアズリーは子供の頃の彼を「華奢なドレスデン磁器そっくり」だったと表現しています。
落としたら割れちゃいそうなくらいか弱かったビアズリーですが、6歳のときに全寮制学校のハミルトン・ロッジに入学しています。
時代性というかお国柄を感じるエピソードですね。
ビアズリーは9歳までハミルトン・ロッジで学びますが、結核の症状によって学び舎を去ることを余儀なくされます。
ビアズリーが復学したのは12歳のとき、今度はブライトン・グラマースクールの通学生になりました。
ここでビアズリーはA.W.キングという信頼できる恩師とも出会い、充実した日々を送ったようです。
ビアズリーの幼少期ー少年時代のキーワードとしては、「音楽」「読書」「演劇」があげられます。
ビアズリーは幼い頃より才能豊かな母エレン・ピット・ビアズリーのもとピアノを教えられてきました。
エレンいわく、6歳にもならないうちからショパンを弾きこなしていたというから驚きです。(母親のひいき目もあるかも知れませんが……)
エレンは自分の二人の子供たちの将来の成功を信じていましたが、オーブリーについては、最初は絵画というより音楽での成功を望んでいたのかも知れません。
さらにビアズリーは大変読書欲旺盛な子供でした。
12歳の頃には少年向けの読み物では物足りなくなっていたようです。
早熟なタイプだったのですね。
三番目のキーワードである「演劇」ですが、彼は生涯演劇好きであり続けました。
ブライトン・グラマースクールの学生だった頃は、友人と一緒に学校を抜け出しては、しょっちゅう劇場の昼興行(マチネ)を観に行っていたようです。
また学校の演劇活動にも加わっていました。
自らお芝居をし、朗読を披露し、ときにはプログラムのための絵を制作したり、衣装のデザインにたずさわったりと熱心に活動をしていたのでした。
絵の制作についても、演劇との関わりの中にその才能の発揮が見られます。
その2 画家としてのデビュー
グラマースクールを卒業した15歳のビアズリーは、1888年、ロンドンで測量技師の事務所に就職します。
これはあくまでつなぎの仕事だったようで、のちに推薦で火災生命保険会社の事務員におさまっています。
事務員としての仕事はビアズリーにとって(他の多くの人にとってもおそらく)けして楽しいものではありませんでしたが、近くにあるナショナル・ギャラリー(ロンドンのでっかい美術館)や本屋通りに通いつめる日々を送りながら、いつか芸術方面で成功する日を夢見ていました。
そんなビアズリーにとって大きな出来事の一つとして挙げられるのが、1891年7月の【エドワード・バーン=ジョーンズ宅訪問】でしょう。
サー・エドワード・バーン=ジョーンズ(1833ー1898)は、ラファエル前派※2の画家として知られています。
※2 ラファエル前派
1848年にイギリスで結成されたグループ「ラファエル前派兄弟団」のメンバーとその影響を受けた芸術家の活動全般を指す。緻密な写実的描写、強い宗教性や中世趣味が特色。
当時、イギリスでもっとも権威ある画家のひとりであったと言っていいでしょう。(サー(爵位)の称号をあたえられているくらいです。)
弱冠17歳のビアズリーは、姉のメイベルと一緒に自作の絵をたずさえてバーン=ジョーンズ宅を訪問します。(一人で押しかける勇気はなかったのかもしれません)
バーン=ジョーンズはビアズリーの絵を見て、「君の才能については何の疑問もない。いつか君が非常に美しい絵を描くのは間違いない」と叫んだそうです!
ちなみにこれは、ビアズリーがこの訪問を回想して、恩師のキング宛に書いた手紙の記述です。
「絵を描く能力を押しつぶしてしまおうとしましたが、駄目でした。その能力は一番強く現れてくるのです」とも書き記しています。
大した自信です。
ビアズリーは実際、これから画家として本領を発揮していくので、うぬぼれとは言えませんね。
バーン=ジョーンズに激賞されたことは、ビアズリーにとって本当に嬉しい出来事だったのです。
ビアズリーに画家としてのデビューがもたらされたのは、1892年のことでした。
ビアズリーがしょっちゅう通っていたエヴァンズ書店の店主フレデリック・エヴァンズの紹介により、出版者J.M.デントから大きな仕事が舞い込んできたのです。
それはトマス・マロリー著『アーサー王の死』の挿絵の依頼でした。
最終的に約500以上の絵を描くことになった文字通りの大仕事です。
無名の新人だったビアズリー、まさに大抜擢といえますが、これにはデント側の思惑がひそんでいます。
デントが欲しがっていたのは【バーン=ジョーンズよりお金のかからないバーン=ジョーンズ】でした。
無名ながら絵を描くスキルはすでにあり、バーン=ジョーンズの影響を受けまくっているビアズリーは適任だったのです。
ここでバーン=ジョーンズの絵とビアズリーが『アーサー王の死』のために描いた二葉を比較してみたいと思います。
いかがでしょうか?
ビアズリーの名を一躍世間に広めたのは、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の英訳版の挿絵でした。
ワイルドといえば、童話『幸福な王子』や長編小説『ドリアン・グレイ』の作者として有名ですが、当時は当時でお騒がせな人物として相当に目立つ存在でした。
饒舌で気障で、愛人たち(基本、美青年)をはべらせて社交界を渡り歩いていたワイルドは、この時代のアイコン的存在のひとりと言えそうです。
そんなワイルド、最初はビアズリーを気に入っておりました。
先に出版されたフランス語版『サロメ』をビアズリーに贈るとき、「僕以外に、七枚のベールの踊りが何であるかを知り、かつ、あの眼に見えぬ踊りを見ることができる唯一の芸術家、オーブリーに。オスカーより」と献辞を捧げているくらいです。
けれど、ビアズリーの挿絵が一枚一枚できあがっていくにつれて、ワイルドは不機嫌になっていきます。
「あまりに日本的なんだよ。僕の劇はビザンチン的なのに」「ませた子供が習字帳の余白に描く落書きみたいなんだ」と友人にもらしていたそうです。
では、その【落書き】のいくつかを見ていきましょう。
ワイルドがビアズリーの絵をこき下ろしたのは、単に気に入らなかったというより、『サロメ』が自分の作品ではなく、ビアズリーの作品となってしまうことを恐れたから、ともいわれています。
それほどまでにビアズリーの絵は鮮烈で、出版前から話題になっているほどでした。
この【話題性】にくっついてきたのは、けして賞賛ばかりではありません。
『サロメ』の挿絵を見ていると、うーん、これは……と苦笑してしまう表現が多々あります。
つまり、「グロテスク」で「忌まわしくて」「奇怪」で「猥褻」で「退廃的」なのです。
でも、そこがまた、たまらない魅力となってヴィクトリアンたちをうならせたのでしょう。
装飾的な美しさと醜悪さが鮮烈な対比となって、今なお私たちを虜にします。
そして、よぉく見てください。
『サロメ』の絵の中には、いくつかワイルドの顔の戯画が描かれているのです。
この方のお顔をお探しください↓
ビアズリーも最初は無邪気にワイルドを慕っていたようなのですが、どうも実際に挿絵に取り掛かる頃には嫌気がさしていたようです。
何でも、ワイルドが保護者面してくるのが気に入らなかったとかどうとか。
当人であるビアズリーとワイルドはお互いに対してうんざりしていましたが、『サロメ』の出版により、世間では二人はすっかりニコイチの存在として認知されていました。
それがビアズリーに思いもかけない悲劇をもたらします。
ワイルドが同性愛の疑いで逮捕され、巻き添えを食う形で美術担当編集主任をまかされていた雑誌『イエローブック』を追放されてしまったのです。
当時のイギリスには、悪名高い「ソドム法」があり、同性愛は刑罰の対象でした。
ビアズリーはワイルドの同性愛の仲間であるという疑いをかけられ、当局に目をつけられることを恐れた出版社がビアズリーを外してしまったのでした。
『イエローブック』自体が、ヴィクトリア朝のすまし顔のモラルに挑戦する革新的な雑誌のはずだったのですが、出版者ジョン・レインは、あくまで表の世界で認められることを求めていたのです。
その4 追放から死まで
『イエローブック』を追放されたビアズリーは、今度は『サヴォイ』という1896年1月創刊の雑誌で再び美術編集の仕事につきます。
レナード・スミザーズというエロティカに魅せられた出版者が出した『サヴォイ』は、『イエローブック』以上に先鋭的であることを狙った雑誌でした。
けれどその売れ行きは思ったようには伸びず、出版期間は一年間、わずか8号で廃刊となってしまいます。
ビアズリーがたずさわった他の重要な仕事としては、アレクサンダー・ポープ著『髪盗み』の挿絵や、アリストパネス著『リューシストラテー』の挿絵があげられるでしょう。
ここで注目されるのは、ビアズリーが描く絵のスタイルが絶えず変化し続けていることでしょうか。
ビアズリーは『サロメ』で独自の美しい様式を確立していますが、そこにとどまろうとはせず、あらゆる表現を模索していたのです。
しかし、ビアズリーに与えられた時間はそう長くはありませんでした。
ビアズリーの人生は、常に結核との闘いにさらされていたと言っていいでしょう。
特に『イエローブック』追放後の数年は、日々悪化していく病状の中、創作を続けていました。
1898年3月、ビアズリーはフランスの保養地マントンにて、母と姉に看取られながら、わずか25年の生涯を終えたのです。
まとめ
いかがだったでしょうか?
本当はもっと語りたいエピソードがたくさんあるのですが、すべてを入れると記事が長くなりすぎるので断念いたしました……。
ビアズリーの人生は短く、画家としての活動期間もわずか5年間しかありませんでしたが、後世に多大な影響を残しました。
私たちは、【ビアズリー的デザイン】をあらゆる場面で目にしています。
黒と白の対比が印象的なデザインを発見したら、それはビアズリーないしビアズリーの影響を受けたデザインの影響を受けている可能性大です!(多分)
もっとビアズリーが描いた作品を見てみたいなぁという方にはこちらの画集がおすすめです。
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ビアズリーの人生についてもっとくわしくお知りになりたい方には参考文献にあげているスタンリー・ワイントラウブの『ビアズリー伝』をおすすめしたいのですが、そこそこの文章量です……。
作家の原田マハさんがビアズリーの人生を題材にした小説『サロメ』を書いていらっしゃるので、興味のある方はお手に取られてください。
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あくまでフィクションですが、史実に忠実でありながらガンガン創造の羽を伸ばしていらっしゃいます。
そして表紙がイエロー!(ビアズリー好き、世紀末好きにはたまらん装丁)
次回の記事でもビアズリーについて語っていこうと思うのですが、今度は【ビアズリーのジャポニスム】に特化してお話をしていく予定です。
オスカー・ワイルドの「あまりに日本的なんだよ云々」という発言にも引っかかってくる話題ですね。
ビアズリーについてもっと知りたい!
ジャポニスムって何ぞや?ということにご興味のある方はぜひ次の記事もお読みいただければと思います。
↓ ↓ ↓
参考文献
スタンリー・ワイントラウブ、訳:高儀進『ビアズリー伝』中央公論社(1898)
富田章『ビアズリー怪奇幻想名品集』(2014)
海野弘『世紀末の光と闇の魔術師オーブリー・ビアズリー』パイ インターナショナル (2013)
図版出典
図1,12,17
海野弘『世紀末の光と闇の魔術師オーブリー・ビアズリー』パイ インターナショナル (2013)
図2,6,10,11,13,18
ヴィクトリア&アルバート博物館HP(V&A · The World's Leading Museum Of Art And Design (vam.ac.uk))
図3
『FIND A GRAVE』(Find A Grave - Millions of Cemetery Records)
図4
Linda Zatlin『Aubrey Beardsley : a catalogue raisonné』Yale University Press(2016)
図5
レディ・リーヴァー美術館HP(http://www.liverpoolmuseums.org.uk/ladylever/)
図7,8
『Enchanted Booklet』(https://www.enchantedbooklet.com/)
図9
ポンセ美術館HP(https://www.museoarteponce.org/index.php?sec=1)
図14
Wikipedia(オスカー・ワイルド - Wikipedia)
図15,16
富田章『ビアズリー怪奇幻想名品集』(2014)