ボタンのなんとなく美術史

画家の人生や作品についてつれづれなるままに。読むとちょっと美術の歴史にくわしくなれるブログを目指します。

写実絵画の小宇宙 ヤン・ファン・エイクの《アルノルフィーニ夫妻の肖像》

こんにちは、ボタンです。

 

今回は、15世紀フランドルの画家、ヤン・ファン・エイクの手になる絵、《アルノルフィーニ夫妻の肖像》について書いていこうと思います。

 

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図1ヤン・ファン・エイク《アルノルフィーニ夫妻の肖像》1434年制作 ロンドン、ナショナルギャラリー所蔵

 

皆さんはこの《アルノルフィーニ夫妻の肖像》をご存知でしょうか?

 

おそらく世界でもっとも有名な絵画のひとつだと思われるのですが、日本での知名度はそこまで高くないかも知れません。

 

そもそもヤン・ファン・エイクからして、美術に関心を持っている人以外の一般知識としては浸透していない名前ですよね。

 

美術史という学問の元祖ヴァザーリは、なんとファン・エイクを油絵の創設者として名指ししています。

 

それ自体はのちの時代に否定されており、油絵の技法はもっと古い時代から用いられていたことが分かっているのですが、後世の絵画技法に革新をもたらす発明をしたがゆえにこういった伝説が生まれたのではないか?と勘繰ることもできます。

 

生前すでに画家としての名声を得ていたようですが、そのわりには謎の多い人物らしく、その生涯の全貌は杳として知れません。

 

そしてそんな彼の代表作である《アルノルフィーニ夫妻の肖像》は、画家同様、謎に包まれた絵なのです。

 

 

その1 《アルノルフィーニ夫妻の肖像》はどんな場面を描いた絵か?

 

《アルノルフィーニ夫妻の肖像》は、結婚の宣誓の場面を描いた絵として知られています。

 

画面中央の鏡の上に“Johannes de Eyck fuit hic 1434”―ヤン・ファン・エイク、ここにありき 1434―と飾り文字で画家のサインがあるのが分かりますか?

 

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図2《アルノルフィーニ夫妻の肖像》一部

 

そして鏡の中には、背を向ける二人の奥に、別の二人の人物の影が映っています。

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図3《アルノルフィーニ夫妻の肖像》一部

 

つまり、この部屋の中には実は四人の人物がいるのです。

 

そのうちの一人がファン・エイクその人で、結婚の証人として立ち会っている、つまり、この絵は結婚証明書のような役割を担っている、と解釈できるわけです。

 

別解釈も存在します。

 

この絵は追悼のために描かれた絵ではないか……という解釈です。

 

アルノルフィーニ夫妻の妻の方は、1433年、つまりファン・エイクがサインを残した年の前年に他界しているのです。

 

いや、そもそもこの絵に描かれているのはアルノルフィーニ夫妻などではない、ヤン・ファン・エイクその人と彼の妻マルガレーテだ!という説もあります。

 

この絵は現在、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しているのですが、展示のキャプションの夫の方の名前にジョヴァンニ?アルノルフィーニとクエスチョンマークが付いているそうです。

 

つまり、左側の人物がジョヴァンニ・アルノルフィーニさんだと断言できるだけの材料がそろっていないということなのでしょう。

 

 

その2 緻密すぎるほど緻密

 

この絵の魅力は、なんといってもその緻密な表現に宿っています。

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図4《アルノルフィーニ夫妻の肖像》一部

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図5《アルノルフィーニ夫妻の肖像》一部

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図6《アルノルフィーニ夫妻の肖像》一部

 

金属製のシャンデリア、犬の毛並み、衣服の質感。

 

細部を見れば見るほど、その細やかさが楽しい作品です。

 

しかもこの絵、わずか82.2×50センチの大きさしかありません。

 

ファン・エイクは油彩技法に取り組む前、写本挿絵画家として活躍していました。

 

大変緻密な作業を要する仕事なので、細部へのこだわりはここで培われたのかも知れません。

 

じっくり見ていると色々な発見がありますが、その中でも特に目を引く調度品は、中央に描かれた鏡でしょう。《図3を参照してください。)

 

ただの鏡ではなく凸面鏡になっており、しかも鏡の縁の装飾にはキリスト受難の場面が十個ほど描かれています。

 

先ほど、鏡の中に映り、存在が示唆されている人物の一人がヤン・ファン・エイクである可能性について書きました。

 

しかし、鏡の中に映っているのは、もしかしたら絵を鑑賞している私たち自身かも知れません。

 

この絵の前に立ったとき、そこは自然と鏡の中に映っている人物二人が立っているはずの場所と重なります。

 

この魅惑的な仕掛けによって、鑑賞者はこの絵に参加することができるのです。

 

 

その3 まとめ

 

《アルノルフィーニ夫妻の肖像》は15世紀に描かれた作品です。

 

私の好きな絵はわりと19世紀の象徴主義周辺に偏向してしまっているのですが、この絵は例外の一つです。

 

この絵を見ているといつも、丹精込めてつくられたドールハウスを覗き込んでいるような不思議な気分になります。

 

このご時世なのでいつになるかわかりませんが、いつか本物の前に立ってみたいなぁと夢見ております。

 

《アルノルフィーニ夫妻の肖像》のことを書いてみようかな、と思うきっかけになったのが、最近読んだキアラン・カーソンの『シャムロック・ティーという小説です。

 

数々の聖人の逸話と共に進行していくペダントリーな物語で、《アルノルフィーニ夫妻の肖像》は衒学的要素の中でも特に重要なモティーフとして登場します。

 

長野まゆみの『フランダースの帽子』という短編にも《アルノルフィーニ夫妻の肖像》が登場します。

ちなみにフランダースとは、ファン・エイクが活躍したフランドルのことです。

 

前回書いたアナトミカル・ヴィーナスのときもそうでしたが、小説の中に美術のモティーフを発見すると嬉しくなってしまうボタンでした。

 

 

 図版参照元

ロンドン、ナショナルギャラリーHP(The National Gallery, London

 

参考文献

ステファノ・ズッフィ、訳:千速敏男『名画の秘密 ファン・エイク アルノルフィーニ夫妻の肖像』(2015)西村書店

ティル=ホルガー・ボルヘルト『ファン・エイク』(2009)タッシェン・ジャパン株式会社

中野京子『怖い絵 泣く女篇』(2008)KADOKAWA

解剖模型?美術品?精巧にして妙なるアナトミカル・ヴィーナス

こんにちは、ボタンです。

 

今回は美術史の主流から外れた、少々妖しい世界をご紹介したいと思います。

 

「アナトミカル・ヴィーナス」と呼ばれる蝋人形を皆さんはご存知でしょうか?

 

蝋人形といえば、マダム・タッソーが有名ですが、「アナトミカル・ヴィ―ナス」もまた、人間を精巧に真似てつくられた人形です。

 

ただし、この蝋人形の特徴はなんといっても、人間の外側だけでなく中身、つまり臓器も精巧に模造されている点にあります。

 

アナトミカル〈anatomical〉は「解剖学の、解剖学的な」という意味なので、「アナトミカル・ヴィーナス」を訳すと、「解剖学のヴィーナス」となります。

 

開腹、というか胴体の皮膚を剥ぎ取られて内臓を剥き出しにした美女の蝋人形という、いかにも変態趣味を反映した代物ですね。

 

しかし、制作された目的はその名前が表すとおり、解剖学に寄与することにあったようです。

 

本物の死体を使うことなく解剖学を学ぶためのツールとして制作されたのです。

 

私がアナトミカル・ヴィーナスを知るきっかけになったのは、今は亡き小説家、服部まゆみ『一八八八 切り裂きジャックです。

 

 

19世紀末ロンドンでジャック・ザ・リッパーが起こした事件を題材にした小説や映画は数多ありますが、『一八八八 切り裂きジャック』もその一つです。

 

この物語の中で、「アナトミカル・ヴィーナス」がかなり重要な役割を担っています。

 

小説の一部を引用してみたいと思います。

 

『大理石のテーブル上、硝子の棺に『ヴィーナス』は横たわっていた。……豊かな金髪に縁取られた卵形の、心持ちのけ反るように仰向いた顔、右手は身体に沿って自然に下ろされ、左手は肩にかかった三つ編みの髪に触れていた。……だが、その胸部から下腹部にかけての皮膚は無惨に剥がされ、内臓が露呈している。しかも腸は引きずり出され、大腸は肝臓から心臓、肺の上にまで広がり、小腸はとぐろを巻く蛇のようにうねうねと、結腸から膀胱を覆い、まるで熱帯の巨大な花が開いたように乙女のからだを蹂躙していた。』

 

「アナトミカル・ヴィーナス」がこの歴史的未解決事件に象徴的に絡んでいくさまがとても魅力的なのです。

 

 

その1 解剖学と美術史

 

レオナルド・ダ・ヴィンチがその生涯において、たくさんの死体を解剖したという話はけっこう有名ですよね。

 

ゆえにレオナルド・ダ・ヴィンチが描く人体は解剖学的に正確なのですね。

 

じゃあ、その死体どっから調達してきたんだよ、という話になるのですが……。

 

解剖に使われる死体は基本的には処刑された人々のものだったようです。

 

しかし、解剖の件数に対して、処刑の件数が追い付かなくなると、外科医たちは死体を高額で買うようになりました。

 

その裏にあったのが、墓場荒らしの横行です。

 

墓場荒らしの取り締まりが強化されると、生きた人間を殺して死体にして売りつけるような輩まで出てきました。

 

自分で死体を解剖してスケッチするような画家はまれだったでしょうが、そんな解剖学の後ろ暗い歴史が絵画の歴史に貢献しているのは間違いないでしょう。

 

 

その2 アナトミカル・ヴィーナスの誕生

 

解剖学のヴィーナスが制作されるようになったのは、18世紀末のフィレンツェです。

 

フィレンツェにはもともと、リアルな蝋製人体模型が制作される長い伝統がありました。

 

それらはなんでも、カトリックの巡礼者への土産物用の聖なる献げ物?であったそうです。

 

フィレンツェレオナルド・ダ・ヴィンチが活躍した都市でもありますが、解剖学の知識への関心の先進地でもありました。

 

1775年、レオポルト二世は大衆に開かれた初の科学博物館をフィレンツェに設立します。

 

この博物館の中心であった蝋工房において、博物館の目玉となる蝋人形メディチ家のヴィーナス解剖模型』が制作されます。

 

制作者の名前はクレメンテ・スジー服部まゆみの小説では『スッシーニ』と表記されています)。

 

この『メディチ家のヴィーナス解剖模型』こそが、アナトミカル・ヴィーナスの元祖であり、象徴ともいえる存在なのです。

 

オポルト二世が博物館をつくった目的は、一般の人々の啓蒙・教化のためでした。

 

最初に書いたとおり、アナトミカル・ヴィーナスはもともと解剖学に寄与するために制作されたものだったのです。

 

しかも、このヴィーナスは解剖学的に正しく七つの層に分解することができました。

 

一般の人々だけでなく、専門的に解剖学を学びたい人々にとっても、多いに役立つ代物だったはずです。

 

なんせ、死体泥棒に高額なお金を払わずとも人体の仕組みを学べますし、腐らないのです。

 

しかし、解剖学のヴィーナスたちは、常に人々を正しい科学的知識の学びへと導く存在として認知されていたわけではなりませんでした。

 

リアルに造られた内臓剥き出しの美女の死体は、学問にかこつけた見世物として大衆に受け入れられたのです。

 

こういう見方は、今でもなお優勢といえるかも知れません。

 

かくいう私も、解剖学には興味がありませんが、アナトミカル・ヴィーナスには興味津々です。

 

知識を得るためのツールと見るか、美術品として見るか、あるいは猟奇的でグロテスクなものへの好奇心を満たすための代物と見るか。

 

見方によって、アナトミカル・ヴィーナスはさまざまな顔を見せてくれます。

 

 

その3 まとめ

 

いかがだったでしょうか?

 

今回の記事はこちらの書籍にかなり頼らせていただきました。

 

 

やはりマイナー路線なのか、私の調べ方が悪いのか、アナトミカル・ヴィーナスについて読める他の書籍が見つからない……。

 

アナトミカル・ヴィーナス誕生までの歴史的背景や、誕生後の軌跡をたどれる貴重な一冊です。

 

図版がかなり豊富に掲載されていますが、これ本当に18世紀に造られたのか……と度肝を抜かれる精巧さです。

 

興味のある方はぜひ手に取られてみてください。

 

それでは、お読みいただきありがとうございました!

 

 

参考文献

ジョアンナ・エーベンステイン、訳:布施英利『アナトミカル・ヴィーナス 解剖学の美しき人体模型』(2017)グラフィック社

中野京子『怖い絵 泣く女篇』(2008)KADOKAWA

服部まゆみ『一八八八 切り裂きジャック』(2002)KADOKAWA

 

ボッティチェリ 《ヴィーナスの誕生》を描いた初期ルネサンスの画家

こんにちは、ボタンです。

 

今回は、初期ルネサンスの画家、サンドロ・ボッティチェリを紹介したいと思います。

 

本名は、アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ヴァンニ・フィリペーピ。

 

ヴィーナスの誕生》や《春》で有名な画家ですね。

 

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図1《ヴィーナスの誕生》1485年頃制作 ウフィツィ美術館所蔵

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図2《春》1482年頃制作 ウフィツィ美術館所蔵

プリマヴェーラ》と表記されることも多い。


 

ぱっと見ただけで、ボッティチェリか、もしくはボッティチェリの影響を受けた画家の作品だなぁと分かる印象的な女性像を描いた画家です。

 

ご存知の方も多いのではないでしょうか。

 

ボッティチェリのご紹介をしようと思い至ったのには訳がありまして、最近、ドラマのハンニバルを観たのですが、そこにボッティチェリの作品がすごく印象的な出方をしていたんですね……。

ハンニバルは将軍の方ではなくて、『羊たちの沈黙』でおなじみの殺人鬼ハンニバル・レクターの方です。

 

映画の方でもアンソニー・ホプキンスの狂演が光っていますが、ドラマもレクター博士役のマッツ・ミケルセンが色気のある殺人鬼を演じています。

 

このドラマ、不謹慎な言い方をしますと、死体をアーティスティックに飾る傾向があります。

 

ボッティチェリへのオマージュなのか、《春》がえらいことになっていました 笑

 

とても面白いドラマなのでおすすめしたいのですが、グロテスクな表現が得意でない方は観ると夜寝られなくなるかも知れません。

 

 

その1 ボッティチェリの生涯

 

とりあえず殺人鬼とは切り離してボッティチェリの生涯を簡単にご紹介したいと思います。

 

1444年、サンドロ・ボッティチェリフィレンツェのマリアーノ・フィリペーピの子として生を受けます。

 

1460年頃には、フィレンツェの隣町プラートに工房をかまえる画家フィリッポ・リッピに弟子入りして修行に励みます。

 

当時、ヨーロッパでは画家になるためには、画家の工房に入るのが一般的でした。

 

今は画家といえばアーティストですが、当時は画家=職人という意識の方が強かったようです。

 

フィリッポ・リッピの工房で絵を描くからには、リッピの看板を背負い絵を描くことになります。

 

ボッティチェリの個性というより、工房の特色を出すために親方画家の絵の徹底的模倣が求められたのです。

 

ここでボッティチェリは絵の基礎を学び、独自の絵を描くための足掛かりとしたのでした。

 

後世に残っている情報によれば、ボッティチェリの人生は晩年に差し掛かる前は、なかなか順風満帆であったようです。

 

デビュー作《剛毅擬人画》で名を上げ、順調に作品を世に出していきます。

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図3《剛毅儀人像》1470年制作 ウフィツィ美術館所蔵

 

メディチ家というパトロンにも恵まれ、自分の工房も持ちます。

 

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図4《聖母子と6聖人》1470年頃制作 ウフィツィ美術館所蔵

メディチ家によってボッティチェリに注文されたと考えられている祭壇画。画面手前にひざまずく赤いマントの二人は、メディチ家守護聖人である聖コスマスと聖ダミアヌス。

 

ボッティチェリがフィリッポ・リッピの工房でリッピの特色を持つ絵を描いたように、ボッティチェリ公房の特色をそなえた絵を世に出す職人画家集団を得たわけです。

 

一時代においては、最も人気のある画家の一人として活躍したボッティチェリは1510年にその生涯を閉じます。

 

享年65~66歳。

 

最後の五年間ほどは身体を悪くして、金銭的な余裕もなく困窮していたようです。

 

そして、生前は高名をはせたボッティチェリですが、実はその死後、名声は衰えてしまいました。

 

再び日の目を見るのは、300年以上後の19世紀になってからのことです。

 

 

その2 ヴァザーリの著書に描写されるボッティチェリ

 

ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』をご存知でしょうか?

 

美術史という学問の始まりともいわれる有名な著作で、ルネサンス期に活躍した重要な芸術家たちの人生と画業を紹介する伝記となっています。

 

著者のヴァザーリが生きた時代が画家たちの生きた時代と近いこともあって、当時の生の情報に近いものが得られる魅力があります。

 

ただし、ヴァザーリの思い込みとか勘違いとかもある模様で、うのみにするのはちょっと怖い、そんな本です。(あと、ほめ方が大仰になりがちです)

 

ヴァザーリの記述によれば、ボッティチェリは、『たいへん愉快な気持ちのよい人物で、自分の弟子や友だちにたいしてよくふざけた真似をした』人物であったようです。

 

ヴィーナスの誕生》に描かれた憂いを帯びたヴィーナス像からは想像しがたい人柄ですね。

 

下欄参考文献に載せている『ルネサンス画人伝』におふざけエピソードが載っていますので、気になる方はぜひ確認してみてください。

 

ちなみに、ボッティチェリという名前は、「小樽」という意味で、元々は太っていたお兄さんのあだ名だったようです。

 

本人の特徴ですらないのに、それがそのまま通称になってしまうとは……。

 

 

その3 まとめ

 

最初に書いたとおり、ボッティチェリは初期ルネサンスの画家です。

 

ルネサンス最盛期の画家といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチラファエロがあげられますが、長い間、ルネサンス最盛期の絵を理想とする考えが西洋にはありました。

 

この考えでいくと、ボッティチェリは理想への足掛かり的存在としては数えられても、『理想』成立以前の画家でしかありません。

 

19世紀後半、フィレンツェではなく英国の地にて熱烈な支持を得るまで、長い長い眠りの時があったのでした。

 

再評価される画家がいる一方で、忘れられたまま埋もれている素敵な画家が他にもいるんだろうなぁなんて思うと内心穏やかではいられませんね……。

 

でも、そういうところも美術の面白さかも知れません。

 

ボッティチェリのことをもっと知りたいなという方は、こちらの書籍をご参照ください。

ボッティチェリの生涯や作品の拾っておくべきトピックスを分かりやすく教えてくれます。

 

それでは、お読みいただきありがとうございました!

 

 

 図版参照元

 

ウフィツィ美術館HP The Uffizi Galleries

 

参考文献

 

 書籍

谷啓徳『もっと知りたいボッティチェリ 生涯と作品』東京美術(2009)

バルバラ・ダイムリング『ボッティチェリタッシェン・ジャパン(2001)

ヴァザーリ、訳:田中英道、他『ルネサンス画人伝』白水社(1982)

論文

堀川麗子「三つの「ラファエル前派」とイタリア初期ルネサンス美術受容」、『愛国学園大学人間文化研究紀要』第11号、p49~60(2009)

理瀬シリーズ新刊出た!薔薇のなかの蛇 装画は北見隆

こんにちは、ボタンです。

 

この5月に恩田陸の理瀬シリーズ(三月シリーズ)の新刊が出ました!

 

タイトルは『薔薇のなかの蛇』

大学生の頃に友人に薦められて読んで以来、大好きなシリーズです。

 

美術史のブログなのに唐突に小説の紹介を始めてしまいますが、それくらい嬉しい。

 

装填・装画・挿画は安定の北見隆

 

このシリーズは北見先生の絵の雰囲気と小説の世界観とのマッチもとても素敵なのです。

 

それではまず、理瀬シリーズの紹介から始めてみたいと思います。

 

 

その1 理瀬シリーズの始まり

 

理瀬シリーズの第一作は1997年に刊行された『三月は深き紅の淵を』です。

 

『三月は深き紅の淵を』という謎めいた本をめぐる四つの短編が収録されています。

 

しかし、語られるストーリーは四つでは足りません。

 

この小説には、外側の物語内側の物語があるのです。

 

まず、私たちが実際に手に取ることのできる1997年刊行の『三月は深き紅の淵を』が外側の物語。

 

そして、作中に出てくる本『三月は深き紅の淵を』の内容が内側の物語です。

 

メモがてら、外側と内側の物語の章立てを書いてみたいと思います。

 

外側

第一章 待っている人々

第二章 出雲夜想曲

第三章 虹と雲と鳥と

第四章 回転木馬

 

内側

第一部 黒と茶の幻想 風の話

第二部 冬の湖 夜の話

第三部 アイネ・クライネ・ナハトムジーク 血の話

第四部 鳩笛 時の話

 

この『三月は深き紅の淵を』から、

 

『麦の海に沈む果実』

黒と茶の幻想

『黄昏の百合の骨』

 

とシリーズが続いていきます。

(他にも短編がいくつかあります)

 

 

このシリーズ、『麦の海に沈む果実』―『黄昏の百合の骨』ははっきり続き物といってよいと思うのですが、他は『続き物』というよりは緩やかにつながりを持つ独立した小説といった方が分かりやすいかもしれません。

 

ただ、内側の『三月は深き紅の淵を』第一部と、理瀬シリーズの『黒と茶の幻想』のタイトルが同じであるように、各小説を読んでいると、もしかして私は『三月は深き紅の淵を』の内側を読んでいるのか……?と思ってみたり。

 

内側の第三部と『麦の海に沈む果実』も登場人物の名前が同じだったり、印象が似てたりするのですが、でも設定は明らかに違う。

 

重なるようで重ならない部分にますます想像力を掻き立てられるのです。

 

 

その2 読む順番について

 

『黄昏の百合の骨』については絶対に『麦の海に沈む果実』読後の方が良いと思うのですが、それ以外についてはどこから読まないとだめということはないと思います。

 

私はオーソドックスに刊行順に読んでいます。

 

でも『黒と茶の幻想』読んだ後に『三月は深き紅の淵を』を読んでもそれはそれで面白かったんじゃないかと思ってみたり。

 

ただ、このシリーズを読むにあたって『三月は深き紅の淵を』は外せないと思います。

 

正直、『麦の海……』も『黒と茶……』も『黄昏の……』も『三月は深き紅の淵を』なしでちゃんと物語として読めてしまうんです。

 

でもこれを読むのと読まないのでは世界観の広がりがまるで違うのです。

 

 

その3 理瀬って誰?

 

このシリーズには、水野理瀬という少女が登場します。

 

理瀬がはっきり主人公だといえるのは『麦の海に沈む果実』と『黄昏の百合の骨』です。

 

『三月は深き紅の淵を』では第四章で登場。

 

黒と茶の幻想』では名前すら出てきません。

 

でも、その『黒と茶……』にすら、理瀬の気配がうっすらと漂っています。

 

あくまで一読者の一見解にすぎないのですが……。

 

このシリーズには『理瀬シリーズ』という呼び方の他に、『三月シリーズ』という呼び方もあります。

 

同じシリーズを指した言葉ではありますが、私はこの二つの呼び方それぞれに違うニュアンスを込めたくなります。

 

『理瀬シリーズ』といったときに蜘蛛の巣の中央にあるのが『麦の海に沈む果実』

 

『三月シリーズ』といったときに蜘蛛の巣の中央にあるのが『三月は深き紅の淵を』

 

どちらのスタンスで読むかによって読後感も変わってくるのではないでしょうか。

 

 

その4 装画を手掛ける北見隆について

 

私が北見隆を知ったきっかけは、このシリーズでした。

 

1952年東京生まれの作家さんです。

 

等身がくるった、どこか木彫り人形めいた人間の描き方をする方です。

 

奇妙なモチーフがたくさん出てきてそれも楽しい。

 

いや、モチーフ自体は奇妙でなくとも、北見隆の世界観に取り込まれるとたちまち奇妙なニュアンスを帯び始めるのです。

 

勿論、理瀬シリーズの装画などについては、本の内容に沿ったものが描かれているのですが、小説の世界観との相乗効果がすごい。

 

本屋でたまたま『本の国のアリス』という北見先生の作品集を発見して思わず買ってしまったのですが、こちらもアリスの世界観と北見隆の世界観の相乗効果がすごい。

(語彙力がなくてすみません。)

 

ひっそりと小川洋子の小説の装画やってくださらないかしら……とか思ってます。

 

 

その5 まとめ

 

新刊の『薔薇のなかの蛇』、買ったはいいもののまだ読めていません。

 

一気に、それもできれば次の日が休日の夜に読みたくて、机の上にあるのを眺めています。

 

この新作によって理瀬シリーズ(三月シリーズ)の世界観がどう変貌をとげていくのかいかないのか、期待と怖さが半分という感じです。

 

ミステリが好き、ファンタジーや学園ものが好きという方には本当におすすめのシリーズなので、ご興味のある方はぜひお手に取られてください。

 

北見隆の装画もたっぷりです。

 

ここまでお読みくださり、ありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

 

展覧会に行ったときに時々思うこと ガラスに照明が反射して絵が見えない……

こんにちは、ボタンです。

 

今回は私的美術館に行ったときのあるある『絵を守るガラスに照明が反射して絵が見えない』問題について書こうと思います。

 

二年くらい前、福岡市美術館に『ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち』という巡回展を観に行きました。

 

私は美術の中でもとくに19世紀の象徴主義周辺が好きで、モローはまさにどんぴしゃりです。

 

学生時代に研究していたオーブリー・ビアズリーに少なからず影響を与えたとも考えられる存在で、これは観に行かないと!と思ったのでした。

 

その日は何故か着物姿の女性たちがたくさんいらしていて、西洋絵画が展示された場所に和装の鑑賞者たちという素敵な不思議空間が展開されていました。

 

特に印象に残っている作品がいくつかあって、1890年頃に描かれた『パルクと死の天使』(この展覧会の絵はすべてギュスターヴ・モロー美術館蔵です)はその一つ。

 

構図としては、運命の三女神パルクの一人であるアトロポスが手綱を引く馬に死の天使が騎乗しているというもの。

 

背景は青空、というには何やら不穏な黒々とした青と白くけぶった水色のグラデーションで、太陽っぽいオレンジの球体が画面右側に浮かんでいます。

私がとくに注意をひかれたのが、死の天使を乗せているです。

 

黒い馬なのですが、その毛並みは青い光沢を放っています。

 

実際に絵を前にすると本当に心惹かれる色合いなんです。

 

もののけ姫』のデイダラボッチに本当にほんのちょっとだけ既視感。

 

でも今、改めてそのとき購入した展覧会図録を見てみると、馬よりも、死の天使や、うなだれたアトポロスに目がいっちゃうんです。

 

やっぱり、実際に絵を目の前にするのと図版で見るのは違うようなぁとしみじみ思ったりもするのですが。

 

本題はここからです。

 

私がこの展覧会でとくに楽しみにしていた絵があって、それがこちらの《出現》です。

 

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図1《出現》1876年制作

展覧会のタイトルにも入っているサロメを描いた作品です。

 

床にあるのは血だまり……?

 

陰惨な画面を描いた作品ですが、圧倒的装飾性と幻想性がその酸鼻を上回ります。

 

この展覧会の目玉作品の一つでもあったからでしょう。

 

目立つ場所に展示されていました。

 

わくわくと絵に近づき、

 

そして……ガ、ガラスに照明が反射して絵が見えないだと……っという事態に陥りました。

 

絵を守るためのガラスなのです。

 

仕方がないのです。

 

絵画を一部のお金持ちが独占していた時代に生まれなかっただけましなのです。

 

そもそもあとちょっと古い時代に生まれてたら西洋絵画なんぞ見る機会も何も存在すら知らずに一生を終えていたでしょう。

 

それでも思ってしまうのが、昔の人が見たこの絵と私が今見ているこの絵は、同じだけれどまったくの別物だよなぁということなのでした。

 

私はその手の専門家ではないのでフィーリングでしかありませんが、絵の鑑賞において光ってとても大事だよなぁと思います。

 

自然光の中で見るか、蝋燭の光で見るか、蛍光灯の光でみるか、LEDの光で見るか、光の種類や当たり方によって、同じ絵がかなり違う表情を見せるはずなのですね。

 

そしてガラスは透明といえど、どうしても光を反射してしまうので、絵と鑑賞者をさえぎってしまうのです。

 

だから、この絵の前にかつてあの人も立っていたんだ!と感動しても、やっぱり百年前を生きたその憧れの君と自分が見ている景色は違うんです。

 

勿論、そもそも人間が違うので、見えているものが違うのは当たり前といえば当たり前ではあるのですが……。

 

と考えると未来の絵画鑑賞についても何やら想像力を羽ばたかせたくなりますね。

 

ガラスを使用せずに絵画を上手いこと守る方法とかが考案されて、より昔に近い絵画鑑賞が実現されてたりするかも知れません。

 

しかし、私が生きている今は今でしかないので、どうにかガラスの反射をかいくぐってモローの《出現》を鑑賞せんと悪戦苦闘したのでした。

 

 

参考文献 図版参照元

マリー=セシル・フォレスト、他『ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち』図録(2019)

 

 

 

 

 

橘小夢 妖美あふれる幻想的日本画の世界

こんにちは、ボタンです。

 

今回の記事でご紹介するのは、妖しく幻想的な日本画を追求した画家、橘小夢〈たちばな さゆめ〉です。

 

皆さんは、橘小夢の名前をご存知でしょうか?

 

明治時代に生まれた画家で、画業は大正から昭和に及びます。

 

 

その1 小夢の生涯

 

橘小夢の本名は加藤凞〈かとう ひろし〉。

 

明治25年に秋田市で生を受けました。

 

心臓疾患のため幼い頃から病弱であったといいます。

 

漢学者の父のもと、政治や文化の最新情報に触れながら成長した小夢でしたが、六歳のときに母親が他界。

 

父親が再婚するまでの四年間、諏訪神社の神主宅に預けられ、父親のもとを離れて暮らしていました。

 

明治41年(1908年)、十六歳のときに上京。

 

洋画を学んだ後、川端画学校で日本画を学びました。

 

この時点では小説家になるか画家になるか迷っていたようですが、結局は画家の道を選びました。

 

大正初期、小夢のコマ絵が、雑誌『淑女画報』や『女学世界』に掲載されるようになります。

 

コマ絵とは、雑誌や新聞に掲載された、周囲の記事とは関連性をもたない絵のことです。

 

明治末から大正時代にかけてこのコマ絵が流行りを見せるのですが、その第一人者が竹久夢二でした。

 

竹久夢二といえば、アンニュイな女性像「夢二式美人」で有名ですね。

 

この頃の小夢の絵には、「夢二式美人」の影響が指摘されています。

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図1 橘小夢作《梅咲く日》1917年2月号『女学世界』コマ絵

 

観てみると、確かに夢二!という感じ。

 

けれど、目のつりあがった狐顔の女性には、すでに小夢らしい妖しさが漂い始めているような……?

 

大正七、八年(1918~19年)頃には橘小夢の作品の愛好家たちによる小夢を支援する会が発足します。

 

小夢は彼らに支えられながら、生涯をつうじて日本画の制作にも取り組むのです。

 

また、大正末から昭和初期にかけては出版文化が栄えた時代で、小夢は怪奇ミステリからユーモラスなものまで、さまざまな挿絵を手掛けます。

 

また、自宅を『夜華異相画房〈やかいそうがぼう〉』と称した版元として、版画の自費出版にも取り組みました。

 

けれど、その記念すべき第一回が発禁処分となってしまいます……。

 

昭和初年代からの軍国主義的風潮は、小夢の幻想美あふれる作品とは相いれないものだったのです。

 

不遇を囲い、第二次世界大戦を経て、病などもあり筆を持たない期間を挟みつつ、その後60代まで制作を続けました。

 

昭和45年、小夢は77歳でその生涯を終えました。

 

その2 小夢の作品

 

それでは実際に、小夢が描いた作品をいくつかご紹介したいと思います。

 

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図2 橘小夢作《玉藻前》1933年制作 個人蔵

 

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図3橘小夢《玉藻前》一部 制作年不明 個人蔵

どちらも玉藻前を描いたものです。

 

玉藻前といえば、帝をたぶらかして都に災厄をもたらした金色のきつねが化けた美女ですね。

 

小夢は日本の伝説を愛し、それをもとに多くの絵を制作しました。

 

金色のきつねといえば、日本昔話の中では例外的なぐらい壮大でスペクタクルなお話ですが、小夢は玉藻前に特にこだわりがあり、何度も描いているようです。

 

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図4 橘小夢《安珍清姫》大正末頃制作 弥生美術館所蔵

こちらも有名な安珍清姫伝説から。

 

愛しの安珍を蛇になって追いかけ、最後には殺してしまう哀しくも恐ろしい清姫の情念が静かに迫る作品ですね。

 

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図5 橘小夢《花魁》1923年制作 個人蔵

《花魁》というタイトルですが、どこか人外の色気をただよわせる花魁ですね。

 

この着物の質感どうなってるんだ……と思わず手を伸ばして触ってみたくなるような絵です。

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図6 橘小夢《刺青》1923年制作 個人蔵

谷崎潤一郎の小説『刺青』から着想を得た木版画です。

 

妖美という言葉では拾いきれないダークサイドをうかがわせる絵です。

 

見ていると肌がかゆくなってくるというか痛くなってくるというか……。

 

 

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図7 橘小夢《押絵と旅する男》1935年制作 個人蔵

押絵と旅する男』といえば、江戸川乱歩の短編小説です。

 

乱歩は明智小五郎ものの探偵小説で名が知られていますが『人間椅子』みたいな怪奇小説(変態小説?)でも有名ですよね。

 

この作品は雑誌の挿絵として描かれたのか、それとも小夢が乱歩作品から着想を得て描いたものなのか不明だそうです。

 

いずれにしろ、乱歩と小夢の相性の良さ抜群です。

 

その3 ビアズリーの影響?

 

橘小夢には、西洋の世紀末象徴主義の画家、オーブリー・ビアズリーの影響が指摘されています。※ビアズリーについてはこちらで詳しく説明しています。→オーブリー・ビアズリー 世紀末に散った華 - ボタンのなんとなく美術史 (hatenablog.com)

 

どこかグロテスクで悪魔的な画風はたしかにビアズリーを思わせます。

 

ただし、ビアズリーは日本の浮世絵などの影響を受けて独自の様式を成立させた画家なので、構図がどうとかいう話になると鶏が先か卵が先かみたいなお話になりそうで私の手には負えません。

 

今回は小夢が自分の作品に残したサインがどことなくビアズリーのものを思わせるのでそれを指摘するにとどめておきたいと思います。

 

こちら、先ほどご紹介した《押絵と旅する男》の一部です。

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図8 《押絵と旅する男》一部

オレンジ色の〇で囲った箇所にある蜘蛛の巣?みたいなやつが小夢のサインと思われます。

 

続いてこちらがビアズリーが自分の作品に好んで残していたマークです。

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図9 ビアズリーのマーク

ちょっと似てませんか?

 

もっともビアズリーのマーク自体、日本語が縦書きのために縦長のサインが浮世絵などに描かれているのを参考にして、このマークを考案した可能性があります。

 

結局、鶏が先か卵が先か問題になってしまうのですね……。

 

 

その4 まとめ

 

生前正当な評価を得られなかったことにより、謎の部分が多かった小夢ですが、平成に入ってから再評価され、展覧会も開催されました。

 

そして画家としては不遇だった小夢ですが、家族に恵まれた生涯だったようです。

 

いかがだったでしょうか?

 

橘小夢のことをもっと知りたい、もっと作品を見てみたいという方にはこちらをおすすめします。

作品も豊富に紹介されていますが、小説家志望でもあった小夢の小説や短歌も掲載されていて情報満載の一冊です。

 

こちらはちょっと毛色が違います。

小夢の作品だけを取り扱っているわけではないのですが、『帝都物語』で有名な荒俣宏の目を通した橘小夢にご興味のある方はぜひ手に取ってみてください。

 

 

お読みいただきありがとうございました!

 

図版参照元 参考文献

加藤宏明、他『橘小夢 幻の画家 謎の生涯を解く』河出書房新社(2015年)

堕ちた星アラステア 遅れてきた象徴派?病的な美を纏う【赤と黒と白の画家】

んにちは、ボタンです。

 

今回は、20世紀に活躍した画家、アラステア(1887-1969)をご紹介します。

 

画家としての名前はアラステア(Alastair)。

 

本名はハンス・ヘニング・ヴォイクト(Hans Henning Voigt)です。

 

ドイツの裕福な貴族の家柄出身……?らしいのですが、「ドイツ人ともハンガリー人ともいわれる」と別の本には書かれていたりします。

 

日本ではあまり知られた存在ではない、はっきりいって謎多き画家です。

 

その1 アラステアの画家人生

 

私はこの画家のことを、オーブリー・ビアズリー(1872-1898)のことを調べる過程で知りました。

 

ビアズリーといえば、世紀末を代表する画家の一人です。

 

アラステアはビアズリーの影響を大いに受けた、いわば「黒と白の画家ビアズリー」の亜流に位置付けられてしまっている画家なのです。

 

そもそも、彼が画家としてのスタートを切った時点で、ビアズリーとの縁は切っても切れないものでした。

 

アラステアを見出したのは、ビアズリーと共に雑誌『イエローブック』を刊行した出版者ジョン・レインだったのです。

 

ビアズリーオスカー・ワイルドの同性愛スキャンダルに巻き込まれる形で『イエローブック』から追放され、その後、25歳の若さで亡くなっています。

※くわしくはこちらをご参照ください。↓

オーブリー・ビアズリー 世紀末に散った華 - ボタンのなんとなく美術史

 

ジョン・レインにとって、ビアズリーは野心を賭けるに足る存在でしたが、庇う勇気は持ち合わせず、彼を手放さざるを得ませんでした。

 

レインにとって、アラステアはいわば、ビアズリーの後継者ともいえる存在だったのだと思われます。

 

1914年、出版者レインによって見出されたアラステアの『アラステア素描集』が刊行されます。

 

1920年にはオスカー・ワイルドの『スフィンクス』の挿絵を手掛け、アラステアの名は世に知られるようになりました。

 

しかし、20年代も終わると挿絵の需要がなくなり、苦しい生活を強いられたようです。

 

再注目を浴びるようになったのは、晩年の1960年代のことでした。

 

順風満帆とはいいがたい画家人生だったのですね……。

 

 

その2 病的な美を纏う作品群

 

それではさっそく、アラステアの作品を見ていきたいと思います。

 

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図1 アラステア作 オスカー・ワイルド著『サロメ』挿絵 1922年刊行

若き天才画家ビアズリーを一躍時の人にした『サロメ』ですが、アラステアもまた『サロメ』の挿絵を手がけました。

 

ビアズリーが挿絵を手掛けた英訳版『サロメ』が刊行されたのは1894年。

 

アラステア版の『サロメ』が刊行されたのは、それから28年後の1922年のことでした。

 

参考までに、ビアズリーの『サロメ』から同じシーンを描いた一葉を見てみたいと思います。

 

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図2 ビアズリー作 オスカー・ワイルド著『サロメ』挿絵《クライマックス》1894年刊行

ヨカナーの首からしたたった血が装飾的な曲線を描いている点や、宙に浮いたサロメという幻想的なイメージに、ビアズリーからの影響が考えられそうです。

 

ただし、アラステアの方がより大胆に余白をとっている点や、色として「赤」を用いている点がビアズリーとは異なります。

 

何より、サロメの身体性の痛々しさは、間違いなくアラステアのオリジナリティです

 

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図3 アラステア作 アべ・プレヴォ著『マノン・レスコー』挿絵 1928年刊行

こちらは『マノン・レスコー』の挿絵の一葉になります。

 

息をのむ美しさですね。

 

私はこの絵を見ると伊藤若冲が描いた鶏さんたちを思い出したりもするのですが……

 

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図4 アラステア作 『マノン・レスコー』挿絵

こちらも『マノン・レスコー』から。

 

ロココの色気がむんむんに漂います。

 

華やかながら退廃美あふれる作品ですね。

 

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図5 アラステア作 オスカー・ワイルド著『スフィンクス』挿絵 1920年刊行

オスカー・ワイルド著【スフィンクス】の挿絵の一葉です。

 

 【黒と白と赤の画家】なアラステアですが、それ以外の色を使わないわけではないのです!

 

シンプルながら遊び心のある画面構成がモダンな印象の絵ですね。

 

 

その3 まとめ

 

いかがだったでしょうか?

アラステアは日本ではマイナーな存在で、学生時代に一生懸命日本語の文献探してはないよ~と嘆いていた記憶があります。

アラステアは素敵な作品を他にもいっぱい描いているので、もっともっと日本での知名度が上がって展覧会とかやってくれないかな!と思っているのですが……。

 

この記事を読んでアラステアの絵好きだな~とか面白いな~と思ってくださった方がいると幸いです。

 

次回は世紀末の西洋絵画から少し離れて、日本の画家、橘小夢をご紹介したいと思います。

 

幻想的で耽美主義的な画風が特徴の20世紀の画家です。

 

アラステアの作品がお好きな方はきっと小夢の絵にも惹かれるものがあると思うので、ご興味のある方はぜひご一読ください!

 ↓ ↓ ↓

botan-art.hatenablog.com

 

参考文献

海野弘『世紀末の光と闇の魔術師オーブリー・ビアズリー』パイ インターナショナル(2013)

海野弘『ヨーロッパの幻想美術 世紀末デカダンスファム・ファタールたち』パイ インターナショナル(2017)

田中雅志「アラステア 黒白赤のデカダンス、或いは星々への回帰」『ユリイカ臨時増刊 総特集:禁断のエロティシズム 異端・背徳の美術史』(1992)青土社

 

図版参照元

図1、4

Pinterest - ピンタレスト

図2

 ヴィクトリア&アルバート博物館HP(V&A · The World's Leading Museum Of Art And Design (vam.ac.uk)

図3

Stuart Ng Books - Illustration Animation & Comic Art

図5

海野弘『世紀末の光と闇の魔術師オーブリー・ビアズリー』パイ インターナショナル   (2013)